困難は自分の内側でつくりだしている

昨日の発信で、寺修行で感じたことをこう書いた。

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困難さは自分の内側でつくりだしていると体感した。
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ずっと前から読んでくださっている方から、感想をいただいた。

 

「困難は自分の中にあるかあ。

 いつも困難に追いかけられている気がするなぁ。」

 

その方の優しい笑顔が、ふと思い浮かんだ。

自分のことよりも周りを優先する、つねに気配りする人の表情だ。

くわしい事情はなにもわからないけれど、もしかすると、誰かの困難をもご自身で引き受けてしまう部分があるのかもしれないと思った。

 

困難さは自分の内側でつくりだしている。

私がそう感じた修行中、私の心は大忙しだった。

煩悩総動員で業の最中も、肉体や精神の声が響いていた。

 

他者と比べる自分。

理想の自分像と比べる自分。

立ち位置を気にする自分。

修行で何かを得ようとする自分。

正座で根をあげそうになる自分。

 

それらすべての困難は、自分でつくりだしていた。

 

「困難」を「我欲」と置き換えてみると腹落ちした。


「こうなってほしいのに、なぜそうならないんだろう」

と困難に思う根っこに、自分の思い通りにしたい我欲がくすぶっていた。

 

我欲(エゴ)が強いほど、現実を思い通りにしたいと願い、そうならない現実とのギャップに苦しむ。

そして、ギャップを作っているのはほかならぬ自分自身だ。

 

困難の要因を、環境や、他者や、年齢や、自分の能力のせいにして動かない理由を得て安心している。

不安を自らつくりだして安心している。

そんなシナリオを書いて見事に演じている。

苦しいという「自分の思い通り」のシナリオ。

 

自作自演。

困難の作者は自分だった。

 

それに気づいてから、世界の見え方が変わった。

 

我欲が強いほど、人生は苦しい。

修行が終わっても、変わらず煩悩はいろいろ訴えてくる。

ああしたい、こうしたい、それはこわい、と内側で訴えてくる。

 

だけど、物事の見え方が変わると、我欲の扱い方も変わる。

言葉の選び方も変わる。

行動も変わる。

 

玉ねぎの皮を剥くように、気づいた我欲をうすく剥いては、手放す。

 

自分の内側で鳴る我欲を聞き流して、ただ今日できることをやるだけだ。

 

近道もない。ワープもない。

泥臭くてシンプルな、すがすがしい世界を毎日選べるのだ。