休むのに罪悪感も劣等感もいらない。

生きているだけで、じゅうぶん私たちは一所懸命だ。

島から帰ってきた子どもが、翌日の部活を休んだ。

 

行き渋りの様子をみて、子どもと話をして、休むことにした。

 

掃除した部屋に自分でクッションや座布団を重ねてふかふかにした巣をつくって横たわり、朝ごはんのあとからずっと眠っている。

 

私は在宅仕事があったけれど、子どもの様子に思うことがあって予定を止めた。

 

島に行った、夏休みだ。

従兄弟と遊んだ、祖父母に会った。

「夏休みに島で過ごした」という事実を表面的にさらって

「リフレッシュした、すっきり!」だけではなく、いろんな感情と肉体の疲れがせめぎあっているのかもしれない。

私も意欲が上がらないときはたくさんある。

そんなときに「しのごの言わずやれ、動け」と叱咤激励して仕事に向かうときもあるし、心身の疲れをすくいあげて「疲れたなら、休もう」とストップを選ぶときもある。

ここでふと最近を振り返って、後者の選択をしていなかったな、と気づいた。

どうしてだろうと考えてみたら、すぐに思い当たった。

 

自分を信じていなかったのだ。

 

どうにも意欲が上がらないダウナー期に、止まると動けなくなりそうだからと無理やり体を動かすことと、いつか意欲が上がる自分を信じて休み、それから再び動き出すのとは、同じ「動く」でもまるで違う。

前者の動くは、自分を疑っている。

怠けちゃったらこのまま動けなくなるんじゃないかと、恐れている。

 

後者の動くは、自分を信じている。

いつか意欲を取り戻してふたたび動ける自分を、知っている。

休むのに罪悪感はいらない。

動く自分を信じるように、休む自分を信じる。

そんなふうで在りたい。

 

その在り方で目の前の他者と向き合えたなら、きっと罪悪感も劣等感も生まれない。

自分にそれら重たい感情がないのだから、目の前の相手に言外に押し付けることもない。

 

 

ふかふかの上でタオルケットをかぶり、無防備に眠る子どもの顔をみながら思った。

生きているだけで、じゅうぶん私たちは一所懸命だ。

ああなりたい。こう生きたい。

そんな向上心や克己心の源は、まず今の自分を満たすことから始まる。

どんな自分でも既にじゅうぶんだと、認めることなのかもしれない。