今日のランチ 罪悪感は食べさせない
きのう子どもが持ち帰った手付かずのパンが母の昼めし。
「なんで食べなかったの?」
「米粉パン、なんかパサパサして食べづらい」
子どもが悪びれずに言う。
「そうかぁ」
世の中には、食事とは呼べないものを食べてどうにか飢えをしのぐ人がいるんだよ。
食べづらいってなんなのさ食べなさいよ。
とは言わない。
とくに、こういう道徳とか、倫理とか「正論」を振りかざしそうなことは、感情的に言ってもしかたない。
本人が気づくしかない。
気づけるきっかけや環境、事実情報をわたす程度にとどめる。できないときもあるけど。
わたしができるだけ意識しているのは、相手の罪悪感をわざと刺激しないようにすること。
「飢えている人が世界中にいるのに、目の前に出された食事を好き嫌いで食べないのは良くない」
という意見に、感情を盛りすぎると罪悪感を引き出しやすい。
わたしが昔そうされて、いやだったからだ。
罪悪感でコントロールされている状況に気づかず、望まないことをいくつも選んできた。
正確には、いやだと気づいたのは大人になってずいぶん経ってから。
それまでは ”生きてるだけでごめんなさいレベル " の罪悪感をひっそり抱えて生きてきた。
いまのわたしは、罪悪感そのものを、悪い感情ではないと思っている。
良いも悪いもなくて、自然な感情だから。
自分の内側がそう感じるんなら、しかたない。
だけど、押しつけ、植えつけられるたぐいの罪悪感は不自然で、「違う」と思っている。
罪悪感をあやつって人の心を縛るのも、縛られるのも、歪んでいる。
罪悪感という毒を盛って相手を動かそうとするのは、見えない暴力の一種だと思う。
「悪いことをした」「申し訳ない」という感覚を強要させる力は、じっとりじわじわと根深く残る。
食べものに限らず、与えられているものの有り難さに気づくことは大事だ。
だけど、その気づくプロセスで歪んだ罪悪感を他人が押しつけると、極端な話、生きていること自体が申し訳ない気持ちにすらなりかねない。
食糧難の国の一方でこちら、目の前の飽食な自分に。
酸素を減らして二酸化炭素を増やす自分に。
今日、食べるものがある有り難さ。
天井の下、目が覚めたこと。
布団の上に爆弾が落ちなかった夜。
ありふれた奇跡がよりあわさってできた一日のこと。
そういうことにわたしが気づけたのは、まわりのおかげだ。
罪悪感も、まわりが教えてくれた。
教師として、あるいは反面教師として。
家族、親戚、友人、仲間、先生、知り合い、名前を知らないほぼ他人、思い出せない誰か。
にんげん以外でも、本、マンガ、アニメ、映画、ドラマ。
いろんな関わりがわたしに教えてくれた。
「罪悪感の泥にまみれた自分」に気づけたのも他者で、泥沼を抜け出すきっかけも他者がくれた。
そしてなにより、「こんな自分はもう嫌だ」と思ったわたし自身が、泥から出ると決めた。
だから他者のおかげと、自分のおかげだ。
持てる者は、持っていることに気づきづらい。
だから、他者が鏡となって教えてくれる。
罪悪感ではなく、事実や情報や環境を渡したい。
そのうえで、ほどよく感情や想いや祈りも渡せたなら、もっといい。
割れた鏡でもなく、歪んだ鏡でもなく、まっすぐに相手の姿を映すいい鏡になりたいと思う。
「食べづらいから食べない」選択肢を自分が持っている。
ありふれた富に、いつか気づいてくれますように。
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