【ノルウェー編3】晴れの日も嵐の日も、何もない日もトラブルの日も
デッキに出て、嬉しくなってしまう。
カモメがたくさん、14階のデッキにとまっていた。
船も、とまっていた。
6月3日の朝の景色が、昨日の朝と同じだった。
パシフィック・ワールド号は、泊まる予定のないトロムソ港に停泊していた。
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昨日の夕方、メイビーとトロムソの街から港に帰ってくると、舷門前に長蛇の列ができていた。
いま船が停電しており復旧作業中だという案内が、港でくりかえし流れている。
停電?
朝に船を降りるときに階段で起こった暗闇の数分間は、あの場所だけでなく船全体の大規模な停電だった。
朝から復旧活動をしているが、まだ修繕が終わっていないらしい。
船内のあちこちで停電し、窓のない部屋にいた人は、視界が突然まっくらになって一瞬パニックになった人もいたらしい。
トイレも使えず、水も出ず、さまざまな「いつも」を失って大変だったそうだ。
知らなかった。
船内に戻ると、船は一体どうなっちゃうんだろうかと、噂話や悲観的な予測でざわついている人たちがいた。
一方、起こったことは仕方ないからと、とりあえず腹ごしらえしてゆったり備える人たちがいた。
いやー、いろいろ起こっておもしろい、と、状況を楽しんでいる人たちもいた。
11階の部屋に戻り、電気のスイッチを押してみる。明かりがついた。
私が出かけている間に一部復旧したと聞いていたが、私の部屋もそうらしい。
出し始めの水は少し濁っていたが、じきに元に戻った。
部屋で荷物を片付けていると、廊下から激しく水の落ちる音が聞こえてきた。
蛇口をめいっぱい開けたような太い水の音。
ドアを開けると斜め前の天井から水漏れしていた。
漏れというか、じゃばじゃばじゃばと水が滝のように廊下に落ちている。
周りの部屋の人たちがタオルを部屋の入り口に敷きつめ、水が部屋に侵入するのを塞ごうとしていた。
クルーや乗客がだんだん集まってきた。
まもなく、廊下の照明が点滅しはじめたかと思うと、ふっと消えた。
上官らしき制服を着た人たちが集まり、無線で連絡を取りあい、11階左舷側の廊下が騒然としている。
30分ほどで水が落ちるのが止まった。
廊下には掃除機で水を吸い取ったあと、布が敷き詰められ、扇風機で乾かし始めた。
それが、トロムソで起きた一日目のこと。
私が知る船内での出来事は、ごく限られている。
ほかの場所でどんなトラブルが起きていたのか、まして停電の原因など、乗客には届かない。
もし、トロムソ港を出港した沖合で停電が起こっていたなら?
揺れる海の真ん中で、錨を下ろすこともできず北の海を漂う事態になったなら?
あたたかいご飯にスープ、お湯も出る。
エンジン音は消え、船は揺れない。
船が出ていても港にとどまっていても、変わらない夜だ。
すごろくの一回休みみたい。
せっかくだから今の頭の中身を出してみよう、と思いつき、2時間ほどかけて仕事の整理をする。
終わった頃には日付が変わっていた。
仕事で、やること、やりたいこと、やらなければならないこと。
仕事以外で、やること、やりたいこと、気になっていること。
思いつくままに、一枚一枚ふせんに書き出し、A4の紙の余白がなくなった。
たくさんあるな。
目に見えてわかった。
それがわかっただけで、現実は変わらないまま、頭が少しスッキリした。
これらをかかえて毎日(終わらない、終わらない、)と過ごしていたからモヤモヤしていたんだな。
不思議な興奮と冷静な頭が混じり合っていた。
眠っている夜の間に、出港するかな。どうだろう。
で、起きたらカモメがたくさんデッキにとまっていた。
大変な人たちがいるのはわかる。
でも、いち乗客の私は楽しい。
ここは港だ。海上じゃない。
ぜんぜん平気、ってかどこかワクワクしている。
トラブルはどれだけ手を尽くしても起きるものだ。
ならば、クレームをがなりたてる乗客じゃなくて、出来事を楽しんでいる乗客になろう。
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朝8時過ぎに、カスパー船長から船内放送が入った。
昨夜、給油と復旧作業は終わって出航態勢にはいったこと。
しかし、現在強風のため出航を見合わせていること。
状況が整いしだい、出港するという。
今回の事態への対応として、次に寄港予定だったホニングスヴォーグへの寄港を取りやめ、ノルウェー最北のロングイェールビーン寄港を「最優先」することにした、と言った。
何かを選び、何かを捨てる。
そういうものだ、と、思う。
どれかを選ぶ、どちらも選ぶ、あるいは、そのどちらも選ばない。
情報を集めて、判断し、決断する。
船会社、旅行会社、NGO団体、それぞれの対応がいま、本当に大変だろう。
次の寄港地でのオプショナルツアーに申し込んでいた人たちへの説明や、返金対応、クレーム対応。
ひとつひとつ課題を解決して次に進むために、多くの人たちが動いている。
ありがたいこと。
今日決定した内容は、6月2日のみの寄港予定のトロムソ滞在が、一日延びたということだった。
それにともない、翌3日に寄港予定だったホニングスヴォーグへの寄港は、取りやめになった。
抜港(ばっこう)だ。
昨日の夕方ごろから、徐々にあちこちの設備が停電から復旧し始めた。
パイプの破損か、天井から激しく水漏れしていた11階も、配管工のクルーたちによって修繕され、水で濡れた廊下は業務用扇風機が音を立てて乾かしている。
起きたトラブルへの処置が急ピッチでなされている。
推定30歳くらいのGくんと、ばったり廊下で会った。
「港で停電が起きて、運がよかったよね」
「だよね。海で停電するよりいいよ」
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階段ですれ違った女性が、隣の人に明るい声で話すのが聞こえた。
「もうねぇ。天から降ってきたような日。
せっかくだから、たまった写真をゆっくり整理しようと思って」
素敵な言葉が、降ってきた。
午後1時、船内放送が入る。
出港を待つまで、夕方までトロムソへ再上陸していい許可がおりた。
静かな喜びがわいてくる。
やった。
出かけよう。
緊急に手配してくれたらしい無料シャトルバスに乗って、街へでた。
降ってきたような5時間のトロムソ滞在おかわりだ。
今日はWi-Fiがあるカフェへ。
データをアップし、業務連絡をする。
Macを開いてぱたぱたしている私を、隣の初老男性2人がものめずらしそうに見ている。
目があって、挨拶をする。
「何をしているの?」
「仕事をしています」
ノルウェーの人は聞き取りやすい英語を話す。
仕事のこと、日本のこと、トロムソのこと、少し雑談して、二人と写真を撮って、メールで送りますよとメールアドレスを聞く。
その場でGmailから送信する。
追加で生まれた時間からできた会話。
データアップが終わった。
二人にさようならを告げて、カフェを後にする。
Wi-Fiがつながる、居心地のいいカフェだったな。
でも、昨日のWi-Fiのないカフェも、居心地よかったな。
機能ではなく、そこにいる人々が環境をつくるのだろう。
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仕事が終わって、帰りのバスまではまだ時間があって。
なんだか急に、のびのびした気分になる。
うれしいな。急にしあわせだ。
雰囲気のいいお店があったので、入ってみた。
お土産物屋さんでもあり、洋服もあり、雑貨もあり。
ダウンジャケットがたくさん並んでいて、セールになっている。
そうか。春だからか。
これから最北の地へ向かう私にはちょうどよかった。
ダウンジャケットを買った。
いつも叔母からもらったお下がりのコートを着ていたので、自分でアウターを選んで買うのは10年ぶりだ。
好きなものを自分に与えることを、私はいままで誰に遠慮していたのだろう。
表地はカーキ色で、裏地はレモンイエローの明るい色。
ふわっと軽い。あったかい。うれしいな。
ダウンジャケットで綿菓子のようにふくらんだ買い物袋をぎゅーっと抱きしめた。
店員さんが笑っていた。
目の前の出来事が、自分に変えられるものか、あるいは変えられないものかを見極める。
自分で変えられることは、変える。
自分で変えられないなら、受け入れる。
私に船は直せない。
私に旅程は決められない。
私のたまった仕事は改善できる。
私の機嫌は自分で取れる。
トラブルがある。水漏れがある。予定変更がある。
部屋も、電気も、水も、あたたかい食事も、ある。
私は何を数えよう。
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シャトルバスの停留所の近く、海のそばに、アムンゼンの銅像があった。
昨日はここに来れなかった、というか、存在を知らなかった。
ノルウェーの人だったんだ、アムンゼン。
人類で最初に南極点に到達した探検家。
トロムソ2日目の思いがけないギフトの夜。
部屋に戻ってシャワーを浴びてパジャマに着替えた。楽しかったな。
今日書きとめたノートと資料を机に置き、経営の師匠から教わった「20マイル行進」の話を思い出す。
机の上の手帳を開き、内側のポケットを探る。
四つに折りたたんだ紙が出てきた。
3年前の私が、今日の私に渡すために、師匠が書いたテキストをたった一枚印刷していた。
………………………………
優秀でかつ登頂もして生きて帰ってくる登山家は、嵐の日も晴天の日もどんな日も20マイル行進するそうです。
晴天でも、調子が良くてもせいぜい24マイル、嵐で進めなくても18マイル。
決して休まないし、やり過ぎないそうです。
優秀なのに、登頂も果たせず遭難して死ぬ登山家は、晴天の日は40マイル進み、嵐の日は何日も休むそうです。
そして、嵐であることに嘆き、天気がいいと喜ぶそうです。
僕は、つねに20マイル行進するように心がけてきました。
あなたはどうします?
………………………………
トロムソで歩いた距離は17kmだった。
いやそういうことではなくて。
晴れの日も嵐の日も、何もない日もトラブルの日も、やることは同じ。
私の20マイル行進は、言葉を探すこと。
私も探検家です。
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