【マニラ編 2】後悔からのペイ・フォワード

マニラ2日目の朝、船室のTVには船の定点カメラからマニラの海が映しだされている。
空は曇って湿度が高そう。
船のスタッフからの情報で、ネットがつながってない状態でもGPS機能を使って現在地がわかるアプリがあると教えてもらった。
「オフライン地図MAPS.ME」というアプリらしい。
昨日迷子になってひやひやしたので、早速ダウンロードする・・・しようとする・・・できない・・・
ネットの速度は110Kbps、MでなくてK。
昔のISDN並みのスピードらしい。
そこに1000人以上がWi-Fiつなごうと回線が集中しているのだ。
ネットカードを使ってダウンロードしようにも、速度が遅くてダウンロードが進まない。
私の窓のない部屋はネットがつながらないので、出発より早い時間にデッキに出てダウンロードを開始してみたが、1時間かけて進捗30%、うん、だめだ。
あきらめて、紙の地図で今日も動くことにした。

昔はそうやって紙の地図でなんとかやっていたのに、便利さに私たちはあっさり慣れてしまう。
今日は午前中だけ、船で知り合ったゆきちゃんと別の知人と3人で行動することになっていた。
二人ともやはりWi-Fiを探していて、観光ついでにFree Wi-Fiが使えるらしいマニラで最大級の大きさを誇る巨大なショッピングモールに行きたいという。
昨日私が電車に乗った話をしたら、マニラで電車!すごい!いいな!と目を輝かせていたので、電車で一緒に行くことにしたのだ。

朝9時、船内。
4階の下船口へ向かう私に、廊下に立っていた乗船者のおばあさんが突然「アンタ、盗られるよ」私の首から下げたミニバッグを引っ張った。ぐえ。
いきなりのことに驚いて目をみはる。
名前も知らない高齢女性だが、布マスクの中央に赤い大きな丸をプリントした、日本国旗の柄マスクをいつもつけて歩いているので、見覚えがあった。
横浜港から乗船したとき、日本国旗の赤丸マスクに、蛍光イエローや蛍光グリーンの洋服、とにかく派手な格好で既に目を引くファッションをしていた女性だ。
毎日ド派手な格好をして、日本国旗の柄マスク姿。
推定88~90歳くらいだろうか。
いきなり首から下げたバッグを引っ張りあんた呼ばわりされ、とがめられ、少しムッとする。
気を取り直して出発した。
下船口で2人と待ち合わせる。

船を降りると曇っていた。気温は既に30度。

電車で移動する前に、港から1.5km離れたイントラムロスという有名な城塞都市に歩いて行くことにしていた。
土曜日の早い時間だからか、地元の人も観光客も、客引きもあまり多くない。
広い鋪道を歩いていると、音もなく近づいた青年が後ろから、私の左手の携帯を奪おうとした。
突然のことに声も出なかった。

私が振り返ると青年はパッと飛びのき、私を何度か振り返りながらゆっくり走っていく。
彼の手と私の手が触れたが、彼は携帯を奪えなかった。
携帯のストラップは手首に巻きつけていたし、そもそも彼の奪う手にためらいがあった。
彼が伸ばした手は、ねじりもひねりも突き飛ばしもなく、ただ眼前の金品を手にするために勇気を出して伸ばした身体の一部に思えた。
ひったくりに失敗した青年の私を見る表情が幼く見えた。もしかすると10代だろうか。痩せていた。

同行の2人もポカンとしている。私もポカンとしている。
観光気分に水を差した出来事だが、出発してほんの30分しかたっていない。

ひったくりに遭っておいて変な感情だった。
あの青年は傷ついているだろうか。私は傷ついていない。
携帯を握りなおし、リュックのジッパーを確かめ、気を取り直して先に進む。

日の丸マスクおばあさんの忠告を思い出す。
ムッとしてすみませんでした。おばあさんの言うとおりだ。
被害に遭うのは一瞬で、効果音もなく起こるのだ。

イントラムロスは有名な観光名所らしく、大型の観光バスが連なり、賑わっている。
トゥクトゥクや馬車など客引きも多い。キーホルダーやネックレスなど物品売りもさかん。
社会科見学なのか、制服姿の学生がぞろぞろと堂内を見学している。
親子連れが楽しそうに写真を撮りあっている。

マリア大聖堂に入るとき、手荷物のセキュリティチェックと脱帽を指示された。
ここにも警備員は多い。
朝の光を吸ったステンドグラスが美しく、ステンドグラスのそばでスズメがのどかに鳴いている。
大理石の床にステンドグラスの色彩が反射して美しい。
しばらくすると荘厳な歌声と音色が聞こえてきて顔を上げると、吹き抜けの2階にあるパイプオルガンの演奏とともに聖歌隊の合唱が響いているのだった。

大聖堂を出ればすぐ前の広場で、物売りと物乞いをする親や子が静かに近づいてくる。
石門の内側で、裸足の老女がカートにもたれるように体を折り曲げて寝ている。

清らかさと濁り、目に映ることを口にしなくても、内側にカオスがつもっていく。
見えづらいだけで、日本もきっとそうなのだろう。

イントラムロス城塞都市を出て、電車乗り場へ向かう。汗がふきだす。
途中セブンイレブンのイートインコーナーでヨーグルトドリンクを飲む。
コンビニのドア付近には物乞いする高齢男性がゆったり出待ちしていることを同行の2人に伝えると、それぞれのリュックをぎゅっと引き寄せた。

UN Ave(ユーエヌ・アベニュー)駅から電車に乗り、EDSA(エドサ)駅へ。
マニラで電車に乗れると思わなかった、冒険だ!意外とキレイだ!と興奮する60代2人。
外国で乗り物に乗るとワクワクしますよね。

EDSA駅からモール・オブ・アジアまで3kmほど。
「タクシーに乗ろう」と同行の1人が言う。
「私がお金出すよ、500ペソくらいで行けるんじゃない?」と。
試しに警備員さんにどうやって行けますか?と聞いてみると、ジプニーで行けるらしい。

ジプニーとは、乗り合いバスのジープ版みたいな乗り物で、後部にドアがない。
乗客は行き先を確認して後ろからさっと乗り込んで、長椅子に座る。
行き先がわかりにくく、観光客にはハードルが高めの乗り物だ。
警備員さんが道路の脇を指差し「ほら、あそこから乗れるよ、料金は13ペソ」
親切に教える雰囲気がさらりとしていて、大丈夫な気がした。

試しに乗ってみましょうと提案する。
「マジで?」2人の顔がひきつっている。「マジで」
ちょうどジプニーがやってきて、何か大声で訊いてくる。
乗るのか?と訊いている(たぶん)。
モールに行くか確認して、狭い車内に乗り込む。怯えた表情の2人が後に続く。
既に10人くらい乗っていて座席はぎゅうぎゅう。

隣の男性に「モール・オブ・アジアに行きますか?」と訊くと「僕もそこに行くよ」よかった。
狭い座席に座り直す。
乗客は降りる際に、自分の座席から運転席の男性へ向かって料金をバケツリレーのように渡していく。
知らない人同士が、当たり前のように小銭をリレーして前方へ渡していく。
なるほど、そうやって料金を支払うのか。
どこか、日本の田舎にある無料販売所みたいな、良心で成り立つシステムだ。
面白い。

15分ほどでモールに到着。終点らしく、残った乗客も全員降りた。
13ペソを支払おうとすると隣の男性が代わりに受け取り、運転者に渡してくれた。ありがとう。
ゆきちゃんはバケツリレー形式に気づかず、隣の女性がゆきちゃんの13ペソに手を伸ばそうとするのをノーノー、と断って無理やり腕を伸ばして運転席の男性に料金を渡していた。乗客にお金とられると思ったらしい。
バケツリレー形式を知って「あの人に悪いことしたわ」と言っていた。

ジプニーを降りた2人は「あああ、うわあ」と肩で息をしている。
「運転がめちゃくちゃすぎて死ぬかと思ったわ、白線も車線もあったもんじゃない、車線をまたいだまま走るわ、クラクション鳴らしまくるわ車の脇をすり抜けるわ、なんなん」と、電車に乗ったとき以上に目をキラキラさせて笑っていた。
車内で2人が写真を撮っていなかったのは、それどころじゃなかったからか。

マニラ最大のモールとうたわれるだけあって、ものすごく広く、清潔で、日本の巨大なモールとほとんど変わらない。
フードコートで美味しいタイカレーを食べてひと心地つき、モールに来た目的のFreeWi-Fiにアクセス。
やはりフィリピンナンバーを入れないとダメだった。

「ここに来ればFree Wi-Fiが使えるって聞いたんだけどな」

しかたないから、モールで適当に買い物してタクシーで帰るわ、と2人。
電車と、ジプニー体験と、タイカレーでお腹いっぱいの様子だ。

「さよはどうする?」ゆきちゃんが訊く。
今日も私のリュックには、MacBookAirが入っている。

「FreeWi-Fi使えるところがないか、もう少し探してみます」
「わかった。気ぃつけて帰ってな」

13時半、別行動へ。
最初に目についたカフェのテーブル席で、片付けをしている店員さんに声をかける。
笑顔がかわいい。
FreeWi-Fiについて尋ねると、フィリピンの電話がないと使えないんですよ、と昨日と同じ回答。
FreeWi-Fiを複数検索してくれるが、どれも同じ要領だった。
電車で6駅はなれた場所でもダメかぁ。

あなたの電話番号を貸してもらえないでしょうか。
そう、私がお願いするよりも先に、店員さんが言った。

「あなたの代わりに私の電話番号を入力して、私の携帯に届いたパスコードをあなたに教えますよ。それなら使えるはずです」

そうしてテキパキ操作しパスコードを取得し、私のスマホに打ち込んで接続。
ネット開通。
お礼を伝える私に、よかった!と店員さんがにっこり笑って、レジブースに戻っていく。
コーヒーも何も頼んでないのに気づき、コーヒーを注文する。

写真撮っていいですか?とさっきの女性に聞くと、いいですよ、とマスクをずらした。
他の店員さんに声をかけて、笑顔の写真を撮らせてもらう。
名札には「JASMINE」、ジャスミン。
彼女の番号を借りてつないだWi-Fiは、昨日よりは回線が速い。
2時間かけて、文章を2本、画像を10枚、動画を2本送ることができた。

チャットワークやLINEなど開けないアプリはあったものの、別の方法で画像や動画をクラウドに保存していく。
時間をかけながら、マニラで撮りためた大量の写真や動画をかなりクラウドに移していく。
そうこうしているうちに3時間半が経っていた。
あ、帰らないと。
港から電車で6駅はなれた場所にいるのをすっかり忘れていた。

ふと、昨日のトゥクトゥクのドライバーの男性を思い出す。
昨日の夜しばらく眠れなかった間、彼のことを考えていた。
「ペイ・フォワード」という言葉が昨日からずっとぐるぐるしていた。
誰かに親切にされたなら、他の3人に親切にすること。
その流れを循環させれば世界を優しい場所にできる、というもの。

名前も知らないあのドライバーに、非礼を詫びてチップを渡すことはおそらくもうできない。
昨日の後悔が今も残っている。

もしも、後悔にもペイ・フォワードがあるなら彼女へ、彼へのチップも合わせて渡そう。

『世界は贈与でできている』という本がある。
私たちは生まれながらに負債を負っていて、それを少しずつ社会へ還していくのだ。
無力な赤ちゃんは親だけでなく、周囲の精神的、経済的贈与を受けなければ生きながらえることはできない。
私が今よりもっと傲慢で不遜な子どもだった頃や20代、30代、いろんな人の力や援助を受けながら、ろくにお礼を伝えていない人の方がずっと多い。そもそも贈与に気づいてすらいない。

これまでに積もった後悔を濾過したものを、ペイ・フォワードのように、当人には返せなくても他の誰かに渡していく。
後悔を渡すのではなく、次はこうしたいの好意を渡すのだ。

リュックにノートとMacをしまい、席を立つ。
助けてくれたお礼を書いたメモと、たたんだ50ペソ札を、レジにいたジャスミンに渡した。
ジャスミンは一瞬おどろいた表情になり、メモと50ペソをそれぞれ見て、ありがとう!と嬉しそうに笑った。
こちらこそありがとう。

外に出ると日は落ちていて、既にうす暗い。
車のライト、ビルの明かり、街が夜になっている。
さて、どうやって帰ろう。

昼間と違って夜のジプニーに乗るのは怖いが、ジャスミンや、昨日の大学生を思い出す。
ひったくり未遂の青年も思い出す。
いろんな人がいるだけだ。試してみよう。
モールの警備員にEDSA駅に行くジプニーの乗り場を訊く。
教えてもらった場所に滑り込んだジプニーの運転手が私を見て何かを言う。聞き取れない。
「EDSA駅に行きますか?」
私の英語の発音が伝わらず、話している途中にエンジンをかけて行ってしまう。

次にやってきたジプニーに駆け寄り、開け放した後部から、ドライバーや乗客に大声で訊く。
「EDSA駅に行きますか?」
乗客たちが顔を見合わせ、私の言わんとすることを理解しようとしてくれる空気を感じる。
1人の女性が「EDSA?」と私に訊いた。通じた。
「Yes, EDSA!」数人がうなずく。「行くよ」
よかった!急いで乗り込んだ。

気づけばあたりは暗く、もはや運転が荒いかどうかも気にならない。無事に帰れればいい。
汗がどっと噴き出すのをタオルハンカチで拭っていると、向かいのマスク姿の女性がニコッと笑いかけ、英語で「1人なの?」と話しかけてきた。
と思うとおもむろに日本語で「にほんじん ですか?」と訊いた。
「わたし少しにほんご話せます、おかあさんが千葉にいます」
さっきのジプニーに乗れなかったのは、彼女がこっちに乗っていたから?

15分の乗車中、名前を紹介しあう。
女友達と一緒らしく、隣の女性が私に会釈する。
千葉にお母さんがいる女性はマジョウと名乗った。
「日本いいな。お母さんと妹にも会いたいです」
「福岡しってます。いきたいです」
そんな話をしているうちに、降りるポイントが近づく。
「12ペソね」
運賃は、行きより1ペソ安かった。
彼女の友達は、私と同じEDSA駅で下車するらしい。
彼女についていけば大丈夫だよ、とマジョウが励ましてくれた。
「もし今日、帰れなかったら、連絡してね」とLINEを交換し、女友達と一緒に後部座席から下車した。

時間は18時半を回り、駅も周辺も帰宅ラッシュだ。
人混みがすごい。
クラリスと名乗った女友達は、私についてきて、はぐれないように、と腕をつかんでリードしてくれる。
彼女が乗る駅の方向は逆らしい。大丈夫だから、こっちね、とクラリスに手を引かれて、セキュリティチェックを通過し、改札で切符を買うところまで同行してくれた。
「身の回り品に気をつけて」と彼女が私のミニバッグに目をやる。
そうだった。
ミニバッグを体の中央に据えなおし、リュックを前がけすると「それがいいわ」と笑顔の彼女。
改札で手を振って別れた。ありがとう。

UN Ave駅に着く。19時少し前。
この2日で3回利用した駅が、もう懐かしい。

ふと、モバイルWi-Fiをつないでみると、久しぶりにGoogleマップが表示された。

駅から港まで歩いて1.7キロ。
車で8分。歩いて30分くらいか。

気をつけて帰ろう。前かけリュックとミニバッグの位置を確認しながら、周囲の往来に目をくばりながら歩く。
昨日から迷子も含めて何度か通った道、通り。
ひったくりもいれば、道を親切に教えてくれる人もいる。
交通渋滞を縫って道路を渡るタイミングを教えてくれる人もいる。

昼間しか知らなかったリサール公園が、夜のライトアップを受けているのを見た。
どちらもきれいだった。

Port Gate1に到着。少し歩くと船が見えてきた。

ただいま。

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