【マニラ編 1】Wi-Fiクエスト
部屋を出て階段から12階のデッキに出ると、朝のマニラ港が広がっていた。
港にはコンテナが並び、港の向こうに高層ビルがぽつぽつ並んでいる。
デッキが濡れていて、空は曇っている。
細かい雨が降っていた。雨なのね。
朝食をとって出発。
リュックにはMacBookAirが入っている。
今回の船旅は、19カ国の寄港地に着くごとに原稿を送るので、Macを持ち歩くことにしている。
船ではネット環境がよくない。
画像データひとつ送るのにも時間とお金がかかる。
しかも、数十分かけたところで一枚も画像が送れなかったりするのだ。
それで右も左もわからない土地でWi-Fiが使える場所を見つけ、船で書いた文章、画像、動画を送る。
これまでと大きく違う旅のパターンだ。
4階の下船口のタラップを降りる間際に、船員から紙のマニラ首都圏の地図を受け取った。
そういえば、地図も何も用意していない。
フィリピンは当初の寄港予定ではなかった土地だ。
中国政府から廈門(アモイ)寄港許可が降りず、東ティモールはコロナ禍の湾岸工事の遅れでそれぞれ寄港取りやめになり、代わりにマニラに3日間寄港することになったのだった。
とはいえ本来の寄港予定地の、インドネシアやスリランカの地図も用意していない。
旅の準備しなさすぎか。
もともと、旅の予定をカッチリ決めるのは性に合わないのだけれど、日本で何かあれば地図で検索するくせがついてしまったので、ネットも繋がらない、スマホのマップも使えないのはちょっと無防備だろうか。
IDカードを読み取って下船する。
滞在期間中はIDカードを携帯すれば、自由に船と陸地を行き来できる。
昨夜、船内新聞と一緒にドアポストに入っていた寄港地情報には、治安があまりよくないため一人歩きは昼間でもおやめください、とある。
文章の行間にぶあつい予防線を感じる。確かにそうなのだろう。
一人で出歩くことにした。
港には観光案内所もなく、周辺地図もなかった。
船でもらった地図は文字が印刷でつぶれて縮尺も大きく、大まかな情報しかわからないが、これがないと始まらない。
まずは、持ってきたドルを現地通貨のペソに両替しよう。
船のスタッフから、Robinson’s Place MANILAという大きなショッピングモールに両替所もあるはずと教えてもらい、地図に印をつけて歩き始める。
まもなく汗が吹き出す。気温も湿度も高い。
「ハイ、マァム」
トゥクトゥクの客引きが多い。
声をかけられるたびに緊張するが、強引な感じはない。
営業しているだけだ。
無愛想にするのも嫌だなぁ、と笑顔でNo,thank youを返しながら、キビキビ振り切るように歩く仕草で「乗りません」を伝えていく。
目的地より手前の路地で小さな両替所を見つけて、20ドル分を1080ペソに替えてもらった。
1ドル=54ペソ。
海沿いの大通りから小さな通りに入ると、目につくのは電線の数だ。
複雑に絡み合い見るからに重そうで、台風が来ると停電も多いのではないだろうか。
奥まった路地にはいりこんだわけでもないのに、廃墟や空き地のゴミが隠すでもなく放られている。
上半身裸の子どもたちと、物乞いをする人と、職場に向かうサラリーマンたちが入り混じる。
スターバックスがあったので立ち寄りWi-Fiが使えるか訊くと、ないんです、と店員さんが申し訳なさそうに答える。
この近くで使えるところを訊くと、やはりRobinson’s Place MANILAを案内された。
ここは大きなお店だからきっと使えると思います、と。ありがとう。
汗が髪からしたたらせながら歩き続け1時間半後、Robinson’s Place MANILAに着いた。
モールは冷房が強く効いていてホッとする。日焼け止めもメイクもとっくに落ちている。
Robinson’s Place MANILAチェーン店が集結している大型商業施設だった。
日本のショッピングモールの雰囲気と似ていて、スターバックス、マクドナルド、モスバーガー、ウェンディーズ、日本料理、インド料理、タイ料理、JINS、OWNDAYS、ユニクロ、H&M、地元のチェーン店、など並んでいて賑わっている。
ここならWi-Fi使えそう。
スマホの Wi-FiをONにする。つながらない。
代わりに電話番号の入力欄が出てくる。
「Free Wi-Fiはありますか?」スターバックスの店員さんに訊くとないという。
もう一軒スタバがモール内にあると教えてもらい、違うスタバで訊くと同じ回答。
「Free Wi-Fiはないです」と。あれ?
隣のマクドナルドでも同じだった。
Wi-Fiに繋ぐとフィリピン国番号63から始まる電話番号の入力を求められるのだ。
試しに、日本の国番号81と携帯番号を入れてみる。エラー。
ならばフィリピン国番号64に私の携帯番号を入れる。エラー。
こんにゃろと試しにデタラメな番号を入れたら「OK!あなたの携帯にパスコードを送ったよ!入力してFree Wi-Fiを楽しんでね」と英語で表示された。
知らない人の携帯にパスコードを送信してしまった。ごめんなさい。
数軒あたって同じ状況。
お昼ごはんを食べよう。座ろう。落ち着こう。
できれば知らないお店がいいな。
INASALという店でチキンとライスのセットを頼む。デザートはプリン。
アイスティーを一口飲んだら甘くてきゅうに元気になる。
蒸し暑さと不慣れな状況に疲れてたんだな。
チキンは塩辛く、プリンとアイスティーは甘く、どれもおいしい。
一旦ネットのことは忘れよう。
マニラまで何しにきたんですが。
いや仕事だけど。だけじゃないでしょう。
Wi-Fi難民になってどうするよ。
モールを探検することにした。
「PAY TOILET」有料のトイレがあった。
並んで受付の女性にお金を払って男女別にわかれていく。銭湯みたい。
15ペソ、約30円払って中へ。
トイレットペーパーは個室になく、手を洗うエリアに備え付けられたペーパーを使う分だけ取って個室に入る仕組みらしい。
使った紙は流さず便器横のゴミ箱に捨てるのだが、こまめに掃除していて全く臭くない。
清潔なトイレだった。
後で気づいたが、無料でも清潔なトイレは他にいくつもあったのでした。
モールを出て、再びFreeWi-Fi探しへ。
建物内にいたときは気づかなかったが、雨がさっきより降っている。
汗と湿度と雨でよれよれになった地図を広げて、電車で別のモールに行くことにした。
通りすがりの学生に道を訊いて、UN Ave(ユーエヌ・アベニュー)駅へ。
飛行機に乗るときと同じような手荷物検査機があって驚く。
電車の乗客もセキュリティーチェックが必要なのだ。警備員も多い。
マスクしてください、と警備員さんに言われて初めて気づく。マニラはマスク着用率が高い。
街中で4割ほど、電車は9割以上マスクをつけている。
30度を超える暑さに加えて、ゴミがそこここに落ちている衛生環境でマスクをつけている光景が不思議に思える。
電車の乗り方も調べてなかったが、15ペソを払って片道切符カードを買えた。初の電車に乗る。
軽量高架鉄道(LRT)の電車内は清潔で、皆マスク姿で静かに乗っている。
高架鉄道なので街の様子が見下ろせるのが気持ちいい。
冷房もありがたい。
一駅先のCentral Terminal(セントラル・ターミナル)駅で下車。
ほんの5分でも知らない土地の乗り物に乗っただけで達成感がある。すごいぞ。えらいぞ。
駅近くにSM CITY MANILAというショッピングモールを発見。
さっきのモールよりこじんまりとしているが、雰囲気は似ている。
大学や学校が近くにあるらしく、学生が多く活気がある場所だ。
一階にスタバ発見し、再度トライするも結果は同じだった。
表示されたサイトには、フィリピンの電話番号の入力欄。
これは・・・どこに行っても同じなのでは?と思い始める。
マニラでは原稿を送れないのだろうか?
船に戻れば、選択肢は2つ。
1)500MB分のデータが送れる有料Wi-Fi(一日1850円)
2)有料WiFi(100分 2100円)
どちらのWi-Fiも有料で、かつものすごく遅い。
1)の速度は遅いうえ、500MBだと画像1枚送れるかの心もとない容量。
しかも、アプリひとつダウンロードできないくらい遅い。
2)の有料Wi-Fiも、同じく遅い。
1つのファイルをダウンロード完了前に100分経過してネットが切れてしまった。
このままだと、原稿や画像を数本送るのに数万円かかりそう。
動画どころじゃない。
時間は13時半を回っている。
朝9時半に出発して4時間経過、いまだネット環境にありつけていない。
なんなら4月7日に横浜を出港して一週間と4時間、ネットがほぼ使えていない。
この時点で2軒のショッピングモールをめぐり(買い物してない)、6軒のカフェをめぐり、通りすがりの街の人A・B・C・D・E、5人くらいに道を訊いている。
まるでマニラの Wi-Fiクエストだ。
「なんと なさけない そうまでして いんたーねっと を したいのか」
脳内で静かにツッコミ入れてみる。自分の必死さが面白くなってきた。
単なる観光になりそうもないです。
4軒目のスタバも同じくダメで、ぼーっと店内を見回す。
さてどうしよう。
誰かに電話番号を借りて、パスコードを教えてもらおうか。
ふと思いつき、そんな目つきで再び店内を見渡してみた。
スマホをテーブルに置き、ノートを広げ何か書いている20代らしき男性が座っている。
「あのうすみません。お願いが。電話番号を教えてくれませんか?」
ナンパやん。
事情をたどたどしく説明する。
旅行者であること、フィリピンで使える電話を持っておらず FreeWi-Fiが使えないこと。
仕事でネットを使いたいけど、うまくいっていないこと。
男性は「僕のWi-Fi使っていいですよ」とあっさりスマホを取り出し、私のスマホで設定、個人のWi-Fiのパスコードを入力した。
ついにネットインジケータ(扇形のマーク)が表示された。
お礼を伝える。やっとつながりました!
ついでに隣の席で作業してもいいか訊くと、どうぞ、と彼のリュックを隣の席に置いて席取りをしてくれた。
その間、コーヒーを買う。彼の分の飲み物も買った。
レジを待っている間、ふとテーブル席を見ると、知人らしき女性がが彼に声をかけているところだった。
ここ空いてる?と、彼女が彼の隣の席を指さし、彼が首を振っている。
ありがとう。
パソコンを取り出して、スマホとWi-Fiパスコードを共有すると、パソコンでもネットが使えるようになった。
借りたWi-Fiは実際のところ不安定で、ときどき接続が切れたり、データが途中で送信エラーになる。
そのたび彼に伝えると「ごめんごめん」とつなぎ直してくれた。
時間はかかったけれど、たまっていたデータを受け取り、内容を確認し、なんとか原稿を2本と画像を数枚、日本へ送ることができた。
データを送っている間、彼と少し話した。
名前はマーク、マニラの大学生だそうだ。
恋人はいる?と訊かれ、結婚してるよ、と左手を見せる。へえー、とマーク。
一人で旅 = 独身と思われたのだろうか。
1時間ほど経ち、彼がテーブルのノートやペンを片付け始めた。
これから不動産管理のバイトがあるから、と。
最初に渡そうとして断られた100%オレンジジュースをもう一度、お礼に、と渡す。
今度は受け取ってくれた。
「よい旅を」
ありがとう、マーク。
マークが去り、再びネットが途切れた。ぷつん。
15時半。顔を上げると店内はさっきより混んでいる。そろそろ出よう。
Wi-Fiクエスト初日は、これで終了。
モールの地下に降りるとフードコートがあった。
チェーン店を中心に多数のお店がぐるっと並び、中央にテーブル。
友人とおしゃべりする人、スマホを眺める人、ノートを広げている学生。
日本と似ている。
LUGAN KINGという黄色いスープ屋さんを見つける。
スープではなくお粥らしい。なんの黄色なのかはわからない。
45ペソ、約90円。
モール内の冷房と緊張で知らないうちに体が冷え切っていたらしい。
ガーリックが効いた熱々のお粥がしみじみ美味しかった。
時計を見ると16時半、そろそろ帰ろう。
Wi-Fiクエストは終了しても、マニラクエストは終わっていないというのに、原稿を2本送れたことで少し安心したのかもしれない。
その後、道に迷ってしまった。
道を訊く。地図を見せると相手が首をかしげる。
地図ヨレヨレだし印刷にじんでるし。
「この先の地下道をくぐって、向こうで*****」と言われるも相手の英語が聞き取れない。
地下道をくぐるが、出口がいくつもある。どこから地上に上がればいいのだろ。
出口に示された標識のエリア名も、通りの名前も、縮尺が大きな手元の地図には存在しない。
地下道の閉塞感に不安になり適当な出口から地上に上がる。
道を訊く。地図を見せると相手が首をかしげる。
指さした方向へ行ってみる。
見慣れない通りに出た気もするし、さっき通った道のような気もする。
3度くらい繰り返すうちにすっかり迷子になってしまった。
英語が話せそうな人に声をかける、相手が首をかしげ、別の人を呼び止めて、現地の言葉で聞いてくれる。
そんなふうに現地の人たちを地味に巻き込み、何人目だろうか。
60代後半くらいの女性が親身に途中まで歩いて案内してくれた。
ディリーと名乗る女性は、これが大聖堂よ、と通りすがりに教えてくれながらマスクをとって笑顔を見せてくれた。
地図の港を指差す私に、歩くには遠いから、イーバイク(トゥクトゥク)に乗りなさい、と言う。
ちょうど流しのトゥクトゥクが通りががり、運転手が「ハイ、マアム!」と声をかけてくる。
この辺りでテンパってくる。落ち着け。考えろ。
(乗っても大丈夫なのか??)
イヤ大丈夫、歩いて帰ります、という私に、不安と不信を感じ取ったのだろう彼女は、近くにいた警備員を引っ張ってきた。
ディリーから事情を聞いた警備員がトゥクトゥクのドライバーに値段を聞き、港まで150ペソだと教えてくれる。
トゥクトゥクに乗るつもりがなく、その額が高いか安いかもわからない。
警備員のネームプレートをディリーが示し、私が手にしたしわくちゃの地図に名前を書き込む。
「Maslot SECRUTY GUARD」警備員だから安心して、と。
こうなるとどこからどこまで信頼するかぶっちゃけ勘だ。
ほら、大丈夫だから、と3人に励まされ、ええいままよと乗った。
トゥクトゥクのドライバー男性と会話を楽しむ余裕はなかった。
10分ほどして突然見慣れた景色に、港の入り口 Port Gate1に到着した。
ホッとしてお礼を伝えてトゥクトゥクを降りる。150ペソを渡す。
「よかったら追加で払ってもらえると嬉しい」そんなようなことを彼が言った。
言い方は丁寧で、強引な感じはしない。チップの要求だろう。
だけど、気が進まないまま利用した後の追加請求に思いがけなく動揺してしまう。
高いか安いかわからない金額を払った後に、チップにふさわしい額もわかりようもない。
両手を合わせて笑顔の彼に、回らない頭をぐるぐるさせながら、ペソ紙幣ではなくペソコインを数枚、財布に入っていたぶんを渡す。
手のひらに置かれたコインを見て、彼の笑顔がスッと消えた。傷ついた表情をしていた。
何かを話し、受け取ったコインを一枚一枚ぜんぶ私に返していく。
「ごめんなさい」
傷つけるつもりはなかった、謝っても意味のない言葉。
ドライバーは目を伏せて小さく笑い、バイクを翻して去っていった。
彼の姿が見えなくなり、手の中にそっくり返ってきたコインを眺めて私は間違ったのだと思った。
18時前に無事に帰船。
IDカードを通し、セキュリティチェックを通り、階段を登る。
部屋に戻るとどっと疲れが来た。
ホッとして、もやもやして、ホッとした。
夜、トゥクトゥクの相場が書かれた資料を見た。
彼が請求した150ペソは決して高くはなかった。
そして、私が渡そうとしたチップのコインは驚くほど安かった。
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