【イタリア編】偶然に意味をつける
旅するもの同士が、かするように旅先で出会う。
互いの目的地もルートも違う、バックグラウンドも違う。
旅立った動機は、もしかしたら似ているかもしれない。
不思議なタイミングで、思いがけない場所で出会う。
サルデーニャ島、カリアリの広場でサックスを吹いている人がいた。
私は朝10時半に下船し、歩いてピエンネ広場に向かっていた。
観光の目当てもないときは、街の中心地になんとなく向かってみる。
実際は、目指した場所にたどりつく前に、興味をひいた音や匂いに誘われて道を曲がることも多い。
予定どおりに行かない私の気分に、誰の許可を求めなくていいのも、一人で動く楽しみだ。
ルートは違っても、求めているものが変わらなければ、いつか行きたい場所に着ける。
今日は、行くつもりだったピエンネ広場よりずっと手前で、音が鳴る右の道へ曲がってみた。
石畳の坂道の途中に、サックス奏者がいた。
エリック・クラプトンを吹いている。
朝が早いからか、道を行き交う人はまばらだ。
彼の演奏を聴いている人はほとんどいないが、彼はかまわず静かな演奏に集中している。
彼の前に置かれた、ひらかれた楽器ケースの中に、ほとんどコインが入っていないのが見えた。
いつからこの場所で演奏を始めたのだろう。
ふだん何をして、生計を立てているのだろう。
彼にとって音楽は仕事だろうか、趣味だろうか。
他の人と同じように、私も彼の前を通り過ぎ、坂道を上っていった。
散歩して、仕事して、また散歩するために。
地図アプリで事前に調べていた「Wi-Fiがつながるカフェ」に行ってみると、閉店していた。
ガラス越しに店内を見ると、中は暗くがらんとして、椅子とテーブルが隅に寄せられている。
エジプトのポートサイドでもそうだった。
「Wi-Fiがつながる」と聞いて行った店で、Wi-Fiが使えない。
ものごとは変化する。
変化に対応して、目的を果たすために次の行動をとる。
閉店したカフェの周りをぐるっと見渡す。
向かいのピザ屋の前に店員が立ち、ランチ前の客の呼び込みをしているのが見えた。
といっても、メニュー表を手にして立っているだけ。
誰にも声をかけようとしていない。
気の良さそうな笑顔。
店内が空いていたので、中に入った。
「Wi-Fiは使えますか?」
「はい。こちらどうぞ」
店員さんが示した壁のプレートにWi-Fiパスコードがあった。
ありがとう。
ピザとレモンソーダを注文して待っている間、テーブル席でMacを開けてネット接続。
データ送信を始めるが、速度はあまり速くなく、作業ははかどらない。
送るデータ量が多すぎるからなのもあるだろう。
数日前、ギリシャでのどん詰まりの教訓を経て、ただ闇雲に動くだけではだめだと思った。
そこで、船と陸地それぞれで、ITに詳しい人に相談し、画像サイズを小さくする方法を教えてもらった。
それから画像のリサイズ作業を、数日前から少しずつ続けていた。
教えてくれたその人たちはとても忙しいので、編集アプリの存在を教えてもらい、作業は自分でやるのだ。
この1ヶ月半で撮りためた画像と動画は、数千あった。
画像はリサイズ編集で小さくできるが、画像よりデータ量の大きな動画は、教わったアプリではリサイズが不可らしい。
できる分だけでも、容量を軽くしよう。
まとめてファイル選択と処理ができないアプリらしく、一つ一つ選んでしてやっていくしかない。
問題は他にもあった。
画像情報がリサイズした日時に更新され自動的に日付が変わってしまい、寄港地ごとの写真管理していたのが時系列でバラバラになってしまう。
そうなると画像と動画の格納順番が散らばって、ますますデータ管理がしづらくなった。
時系列を元どおりに戻そうと最初は1件ずつ再編集していたが、途中でやめた。
目的を果たすために必要じゃない作業をやっている暇はない。
日付の再修正は諦め、写真の順番がバラバラになってもいいから画像サイズを小さくすることにした。
ITにまつわる私の苦手な作業を、海の上でやっていた。
それがいくらか進んだところで、5月18日、イタリアに入港した。
まだ仕事は終わっていないが、旅程は待ってくれない。
エジプトで、ギリシャで、味わった時間。
完璧には、はなからなれやしない。
こだわるほどに遠ざかる。
すべてのデータアップが終えるのを、ただ待つのはやめた。
今できることは、ピザが温かいうちに食べること。
さっき店員さんが釜で焼いてくれたピザを、温かいうちに食べた。
半分に折られたシンプルなマルゲリータにそのまま噛みつく。
おいしかった。
食事を終えて、処理待ちデータの残数をチェックする。
接続したときの未処理ファイル数は1094だったのが、1093と表示されていた。
動画のアップが、1時間かけて1つできた。
画像のアップは、ゼロということだ。
データのアップにかかる残り時間の目安は、まだ100時間以上あった。
ギリシャの夜から大差ない。
船に帰ったら、リサイズ作業を続けてみよう。
動画はもう少し短く編集しよう。
あといくつの動画が同期待ちなのだろうか。
それが終わらないと画像が同期されないのだろうか。
調べたところで、私がこの後とる行動は変わらない。
Macを閉じて、資料を片付け、リュックにしまった。
レモンソーダを飲み干して、自分の現在地をたしかめた。
帰船リミットまでの時間を数える。まだじゅうぶん時間はある。
あらためて今日、どこに行きたいか、私の内側に聞いてみた。
何が欲しい? 何をしたい?
訊いてみる。
私の内側は、苦手なパソコン作業を終えたばかりで放心状態らしく、なんの返事もない。
右利き人間が、左手でよく切れる包丁使って大根のかつら剥きしたようなもんだ。
神経くたびれきってますなぁ。
欲しいものがわからないと、ほんとうは望まない買い物など「誰かの価値観」に手を伸ばしてしまう。
欲しいものがあやふやだと、欲しいものを手に入れるまでにたくさんのものを失う。
お金もそうだけど、おもに命の時間を。
何が欲しい? また訊いてみる。
おいしいデザート?
店で買い物? 服? お土産? 自分への贈り物?
それともお金では買えないたぐいのもの?
内側からは何も聞こえてこなかった。
まだ疲れているのだろう。
欲しいものがあいまいなら、無理にひねり出さなくていいか。
散歩しよう。
店員さんにお礼を言って、支払って、店を出る。
街をてきとうに歩いて回り、近くの大学がある坂道のてっぺんまで上がり、気になった店をのぞき、またてきとうに歩いた。
ピエンネ広場を通って、大きな大聖堂の展望台に上ってみる。
階段の段差が大きく、息を切らしながら上がると、カリアリの街が一望できる広やかな場所に出た。
海も見える。
展望台からの景色が美しくて、見下ろすと車と人の往来が見えた。
赤い車が、交差点で減速した後、再び加速して海の方へ走っていった。
きれいな赤色だな、と汗を拭きながらおもっていると、ふとBGMに気がついた。
音楽が聞こえてくる。
美しい景色に、美しい音楽が流れている。
テレビCMや、映画のワンシーン、YouTubeのプロモーション広告のようによくある組み合わせ。
それが、いま起こっている。
音楽が流れているもとはどこだろう。
あたりを見回す。
展望エリアは観光客やインド系の露天商はいても、楽器を手にした人は見当たらなかった。
ふちから街を見下ろすと、大聖堂の近くの大きなカフェの前で、さっきの彼がサックスを吹いているのが小さく見えた。
サックスの音色が、数十メートル上の空まで届いていた。
朝は違うところで演奏していたのに、移動してきたんだ。
あれから5時間は経っている。
まだ吹いていたんだ。すごいなぁ。
大理石の階段を降りて、カフェの前に行ってみた。
さっきの奏者が、知らない曲を演奏していた。
さっきより往来が増えて、通り過ぎる人たちが体を揺らしたり眺めたりしている。
私もそばに行ってみる。
目が合うと、演奏から離れないまま彼が、にっと目で挨拶する。
よく見るとサックスのラッパ部分にマイクがつけられ、彼の隣のアンプから音が伸びやかに広がっていた。
だから展望台の上まで、音が届いたのか。
今日、何曲目かわからない曲を演奏し終わると彼は、続けてスマホを操作して違う曲をかけた。
コールドプレイの『A Sky Full Of Stars』だった。
イントロに合わせてサックスを吹き出す。
気づくと私の体が揺れていた。
揺れる私を見て、彼が目で笑い、演奏を続けた。
演奏が終わり、周りから拍手がおき、コインが楽器ケースに投げ込まれる。
私もそうした。
水を飲んでいる彼に声をかける。
「コールドプレイが好きなので、嬉しかったです」
「僕もコールドプレイ好きだよ」
彼はイタリア人で、名前はジュード。
この街の住人だと思っていたが、旅の途中だという。
彼は明日、カリアリを発つという。
私は日本から来ました。
今日、カリアリを離れます。
そう言うと、ジュードは笑った。
「そうなんだね、いい旅を」
「ありがとう。あなたも」
ジュードの演奏を聴きながら、広場を離れた。
お腹すいたな。
甘いもの食べたいな。
ジェラード屋さんで、ピスタチオとチョコのジェラードを買った。
外のテーブルに座って食べた。
おいしかった。
店員さんが外に出てきて、どう?と訊いた。
おいしいですと答えると、ウインクして親指をたて、店の中に戻っていった。
文房具屋さんに、ふらっと入ってみた。
店内の壁の吊り下げ棚にかかった金色のなにかがあった。
手に取ると白地に金の光る模様が入った、革のペンケースだった。
8年使ってボロボロになったペンケースを買い替えたかったことを思い出した。
私の内側に、これ欲しい? と訊いてみる。
欲しい、と答えが返ってきた。
それを買った。
ペンケースをなでた。
柔らかな革でできていて、温度を感じる。
小さな動物をなでているようだ。
よろしくね。
どちらかがいなくなるまで一緒に過ごそう。
文房具屋さんの帰り、まだ演奏している彼を見かけた。
今度は声をかけず、そのまま前を通り過ぎた。
明日には、彼も私もここを離れて、それぞれの場所に向かう。
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平行でない2本の線は、いつかどこかで交差する。
交差したのち、線たちは再び離れていく。
そういう出来事を、日本語で「一期一会」と言ったりする。
Google翻訳で調べたら、一期一会は「once-in-a-lifetime chance」だって。
チャンス、なんだ。
日々の出来事で、不思議なめぐり合わせがあったとき。
「たまたま会った」
「ただの偶然」
そう見なして記憶に残らない「ただの一日」にすることもできる。
生まれた場所、育った場所、国籍、自分の名前。
親、性別、きょうだい。
持って生まれたもの、持たずに生まれたもの。
自分で選べなかったことがらのすべて。
それらは、偶然でできているように見える。
あるいは偶然でなく「自身に力を与える意味」を贈る機会(チャンス)でもある。
これまで重なることのなかった私の線が、誰かの線と、ふと重なる。
宇宙のサイズでほんの少しの、同じ時間をすごす。
こんにちは。
こんなところにいたんですね。
焦点を結びあって、お互いの存在を認めあう。
命の容れ物のサイズとともに、また離れていく。
ずうっと平行で変わらない景色には、一緒にいられない。
だから会えたとき嬉しいんだ。
さようなら。またね。
旅するもの同士が、かするように旅先で出会う。
不思議なタイミングで、思いがけない場所で出会う。
本当にそうだろうか。
不思議でもなんでもない。
出会う人とだけ、出会うようになっている。
遅すぎも早すぎもしない、ちょうどいいタイミングで。
思いがけないと思っていた場所は、自分が立つと決めた舞台だ。
恐怖や緊張とたたかいながら舞台に立った人に用意された、新しい登場人物が現れる。
幕の向こうから、もしかすると、海の向こうからかもしれない。
私たちの人生が旅なら、あの日の偶然を「シナリオ」と意味づけてみる。
偶然に見せかけたシナリオの、その意味を読み解こうとすればいい。
行動しながら、意味をつけていけばいい。
かならず、次にふさわしい展開がおとずれる。
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