【バリ編】信頼のレシピ

朝8時に入国した二つ目の港はバリ、インドネシアだった。
船室のテレビの定点カメラに港周辺の様子が映し出されている。
窓のない部屋だと、船が陸地に寄せようがデッキに出るまで何もわからない。
それで朝起きたら一番にテレビをつけて、定点カメラのチャンネルに合わせる。
小さなテレビで切り取られた船の先端の様子が、船窓の代わりだ。

入港して1時間後には上陸許可がおりた。
が、私は朝7時から原稿の画像と動画の準備に時間がかかり、部屋からなかなか出れないでいた。

船に乗っている間はネットがつながらないので、日本で当たり前のようにやっていた作業が滞っていた。
Wi-Fiってこんなに便利だったんだ、すっかり慣れきってしまってたなぁ。

2時間かけて9時過ぎにようやく原稿の準備ができた。
12階デッキに上がってみる。
空調の効いた部屋とはまるで違う、南国の蒸し暑さが広がっていた。
バリは昔から縁があり、今までに5回ほど行ったことがあるけれど、港から入国するのは初めてだ。

MacBookAirとモバイルバッテリーを持って出かけた。
ベノア港は清潔でかわいらしい港だった。

ターミナルで入国のセキュリティチェックをすませるとピースボートスタッフの方が私を見つけて「ここのターミナルはWi-Fiつながるみたいですよ!」と笑顔で教えてくれた。
Wi-Fi探しで私が一苦労していたのを知っていたので教えてくれたのだ。ありがとう。
ターミナル内は小さな売店が2つ、両替所が1つ。長いベンチが4つ。
ベンチに座ってパソコンを取り出しWi-Fiにつなぐ。つながった!
船はターミナルのそばだし、うまくいけばパソコンを持ち歩かないで外出できるかもしれない。
スマホとパソコンどちらもWi-Fiにつないで、たまっていたメッセージを確認、返信していく。
1時間は、あっという間に過ぎた。
2時間が、あっという間に過ぎた。
3時間も、あっという間に過ぎた。
それでもまだベンチに座っていた。終わらない。
画像のアップに時間がかかる、動画のアップにさらに時間がかかる。
時間がかかった上にアップロード失敗も起こる。
使用予定のデータがクラウドにアップされていないと知り、再度アップをする。
あまり得意でない作業ものにこれほど時間がかかるとは思わなかった。

あ、そうだ。バリの地図をダウンロードもしないと。
船では例によってネットが遅くて地図がダウンロードできていないままだった。
今日配られた地図はマニラ同様、ざっくりマップなので自由行動には向いていない。
これから出かけるというのに、地図が手元にない。
ダウンロード開始。・・・・・・遅い。
遅いというより、進捗0%のまま進まない。
となると地図より原稿のデータを優先しないと。
あれもこれもと気持ちが焦りだす。

原稿のデータをアップし終える頃には、14時になろうとしていた。
バリの滞在はたった一日。今日の18時が帰船リミットだ。
ラマダン(断食)明けの今日は、バリの観光地で渋滞が発生しているらしいので、ギリギリに帰るのは不安だ。
となると、17時にはターミナルに戻っておきたい。
となると、あと3時間。何ができるのでしょう。
ベノア港の周辺散歩で終わるのか。
この辺りは田舎で、レストランもほとんどないらしい。
えー。

お昼も食べずにずっとベンチで作業していたので、お腹がすいてたまらなかった。
ベンチから立ち上がってターミナルを出ると、バリの景色が広がっている。
空の色が濃い。晴天だった。
目の前に白いタクシーが止まっていた。
数人のインドネシア人の男性が客待ちをしているようだ。
「クタに行きたい?」と1人の運転手が尋ねてくる。
ベノア港から近い街はクタで、人気のスポットらしいとは聞いていた。
ただ遠いので、行きと帰りで1時間かかったとして渋滞も想定に入れるとあわただしくなりそうだ。
朝から出かけていれば余裕だっただろうが、これからの出発だと時間を気にして楽しめる気がしない。

タクシーの運転手の問いかけに渋っている私のそばを、見覚えのある真っ赤なワンピースを着た女性が通りがかった。
名前は知らないけれど船内で見たことがある、スタッフの方だ。
「あの、すみません。この辺りで食事ができるところを知りませんか?」
女性は私に気のいい笑顔を向けてくれた。
髪が長く、メイクも濃く、個性的な柄の真っ赤なワンピース。
見るからに英語もコミュニケーション力もずば抜けてそうな外見だ。
「この辺りは何もないみたいですよ。あっちにレストランが一つあるけど、特に見て回るものはないみたい」
船会社の名札をつけている。YUKIさん。
「そうなんですか。実はさっきやっと港から出てきたばかりで、あまり時間もないからこれからどこに行こうかと思って」
私がお腹のすいた情けない声で言うと、YUKIさんがタクシーの運転手にこの辺りの店について訊いてくれた。
ないらしい。YUKIさんはニコニコしている。

「私はサヌールで一泊して、バリのオプショナルツアーのアテンドをしに来たんです」
「ツアー後から、船に乗るんですか?」
「いえ、ここで別れて、次はタラゴナのツアーで合流します。その次はメキシコでまた合流かな」

スペインのタラゴナ入港は5月20日、メキシコ入港は7月2日だ。
船には乗らず、各地のオプショナルツアーのコーディネートとアテンドをしているらしい。
ただでさえ旅は予想外がつきものだ。
言語に長けるだけでは到底できない、さまざまな「思ってたのと違う」を各地で飛び回りながら解決してお客さんにニコニコ対応しているのだろう。
こんな仕事の仕方があるんだ。

「いつも人を募集してます」ふふふ、と笑うYUKIさん。

タクシーの運転手が、サヌールはいいところだ、とYUKIさんに話している。

「サヌールに一泊したんですか?」
「そう。ここね」

紙の全体地図で指差した方角は、船会社から渡されたおすすめエリア「クタ」とは真反対にあった。

「クタは賑やかで人気エリアだけど、今からだとちょっと遠いよね。
サヌールは落ち着いていて静か。のんびりして、いいところだよ。
クタより混んでないんじゃないかな」

YUKIさんはタクシーの運転手とサヌールへの距離や行き方、値段をサクサクと訊いてくれた。
ここからだと20~30分ほどで行けるらしい。
往復で50ドルとのこと。
高い気もしたけれど、事前にもらった寄港地情報のタクシーの相場とはさほどズレてはいない。
値下げ交渉する気持ちにはならなかった。
ここで感情カロリーや時間を取られたくもなかった。
私がちょうど50ドル紙幣しか持っていなかったので、それで交渉成立。
レストランではクレジットカードが使えるらしいので、大丈夫そうだ。

地図のダウンロードがまだ出来ていないと言うと、僕のWi-Fiとつなぐからタクシーで移動しながらダウンロードしたらいいよ、と運転手がWi-Fiを貸してくれた。
ここでもWi-Fiを借りる私。

ツアーの添乗業務があるYUKIさんと別れる。ありがとう。
「楽しんでね!」
手を振って、タクシーに乗り込んだ。

タクシーの運転手が貸してくれた個人Wi-Fiはとても速かった。

ものの5分でダウンロード完了。1時間かけても出来なかったのに・・・
ダウンロードできました、ありがとう! と助手席の私。
ハンドルを握ったまま、うなずく運転手。

と、ここで、タクシーで移動してサヌールのレストランでごはんを食べ、タクシーで港に送ってもらう今回のプランなら、地図は必要ないことに気づいた。
もういいや、涼しい車内でドライブを楽しもう。
膝に乗っけたパソコンとにらめっこしてて、すっかり近視になってたや。
スマホをバッグにしまって、窓からの景色をぼけーっと眺めた。
バリの神様があちらにもこちらにもいる。普通にいる。
いい天気。
バリに来てたんだ。

タクシーはとても清潔だった。
音楽もラジオもかかっていない。
今日お世話になる彼の名前をたずねると、ANOM、アノムと名乗った。
アノムは特におしゃべりでもないらしい。
私が黙っていると、アノムも静かに運転している。
押し付けがましくない空気感が心地よかった。

車窓を流れる風景を眺めるうちに、少しずつ気持ちがほぐれてきた。

サヌールへの道のりは空いていた。
道路も整備されていて、車もバイクもゆったり走っている。

「何が食べたい?」
前を向いたままアノムが尋ねた。
「バリのご飯は美味しくて好きだよ。ナシゴレンとかサテとか。何かおすすめはある?」
「バビグリンは?」
聞いたことがある。豚をカリカリに焼いた香ばしい料理。
「食べたことない。食べてみたい」
「おすすめのお店があるから連れていくよ。安くて美味しいところ」
「ありがとう」

レストランには20分ほどで着いた。
時間は14時半。ランチのピークが終わって客は誰もいない。
店先で大柄の女性がショーケースの食品を整理しているところだった。
タクシーを店の前に停め、先にアノムが店の女性に現地語で何か尋ねている。
それから私をみて、中にどうぞと促した。

看板にはBABI GULING PAN JOSS SANUR。
バビグリンの専門店らしい。
カウンターに置かれたメニューは定食3種類。SとMとL。量の違いだけ。
どれくらいの量か分からないので、試しにSサイズを注文した。
ペットボトルの水も注文する。
アノムは、僕はお昼は食べたから、ゆっくり食べて、と離れたテーブルに座ってスマホを取り出した。

がらんとした店内の椅子に座ってペットボトルの水を飲んだ。冷たくてホッとする。
知らない場所にいると、体のどこかが緊張しているものだ。
すごろくのコマが一つ進んだところで、ゆるめてゆっくりしよう。一回休み。

10分ほどで料理はやってきた。シンプルな籐のカゴに盛られている。
焼き鳥のサテが添えられているのが嬉しい。
これで25000ルピア。300円くらいだ。
めちゃくちゃお腹が空いていたことを思い出した。
カリカリに油で揚げられたバビグリンはとても美味しく、口の中でがりんがりんと割れる音が楽しい。甘辛く味付けされたサテもとても美味しい。
「これ美味しいですね!」
女性に声をかける。ショーケースから振り返った女性がニコッと笑う。
「よかった」
「ほんと美味しいです」
厨房にいた男性が私をみていたのに気づいて、美味しいですというと、ニコッと笑った。
厨房を掃除しながら、音楽に合わせて鼻歌を歌い出した。

汗をかきながら食べる私に、別の男性が箱ティッシュを持ってきてくれた。
「ありがとう。美味しいです」
お腹空かせててほんとうによかったと思えるほど美味しかった。

女性が「あなたも家で作れるよ」と材料を持ってきて見せてくれた。
大きな赤とうがらし、マカデミアナッツ、ブラウンシュガー、ガーリック。
材料が入ったビニール袋を次々と見せてくれる。

「ええと、これは・・・」
女性が手にした袋に、丸い小さな豆のようなものがぎっしり入っている。
「何かの種?」
「そう。名前は・・・」

女性が首をかしげて、袋をアノムに見せる。
「これは、英語でなんだっけ?」
「コリアンダー」
「そう、コリアンダーの種」

材料とレシピを知っても、今日ここで食べるのがいちばん美味しいのだろう。
サテが美味しいので、追加で注文した。4本。

小ぶりな串なのですぐにお腹におさまった。
汗をかきながら完食。

これ、船に持って帰って友達と食べたいな。
それで、サテの串を持ち帰りで8本作ってもらった。
プラスチックのパックに並んだ串は、居酒屋の焼き鳥みたい。

ひと心地ついて、スマホを取り出す。
アノムのWi-Fiがまだつながっていた。ありがたい。
久しぶりにFacebookを開いてみる。
船だとページが表示されるのにものすごく時間がかかる(その間お金もかかる)が、アノムのWi-Fiであっさり開いた。
すごい。
美味しかったご飯の記録を、現地で、感動が生きているままアップしてみた。

午後3時半を回る頃、地元の親子連れなどお客さんがちらほら増えてきた。
4歳くらいの男の子がおばあちゃんに連れられて、跳ねるように店に入ってくる。
男の子と目があって、笑い合う。
おばあさんが後から入ってきて、孫がかわいくてたまらないといった表情の名残りで私に笑いかける。
うーん、めっちゃかわいいですねぇ。
私も笑顔で返す。
愛情をシェアするのに現地の言葉も英語もいらない。

そろそろ帰ろう。
まだ日は高いけど、すっかり気持ちが落ち着いた。

ごちそうさまでした。ごちそうでした。

レジで精算するとき、クレジットカードの読み取り機が壊れていると知らされる。
タクシー代ぽっきりしか持っていない。
どうしよう。
アノムにルピアを借りて、後で返そうか。
私がそう思ったことを口にするより先にアノムが、立て替えておくよとルピアで支払いを済ませてくれた。
後で食事代も払ってね、と。

アノムにお釣りのコインを渡そうとした女性に、「取っておいて」とアノムが手で制した。
女性が「Thank you」と笑う。

助手席に乗り込みながら私が、「さっきチップを渡したの?」と訊くと「うん、ほんの少しだけどね」とアノム。
ほんの少しの行為で、ほんの少しの幸せを作る。

美味しいサテだって家で作れる。
ありがとうの気持ちも自分で作れる。
こうやって善い連鎖を作れるんだ。
受け取るばかりじゃなく、自分から。

帰り道も空いていた。
ラマダン明けの繁華街は混んでいるらしいけれど、どこかサヌールはのんびりしている。
初めてきた場所なのに、「いつもの風景」を眺めている気がした。

「少し時間があるので、遠回りできると嬉しいけどどうかな? もし難しかったらいいけど」
私が聞くと、アノムはうなずいた。
帰り道をアレンジしてくれたかはわからないけれど、景色が楽しめるよう速度を落として、ゆっくり走ってくれた。

「今日は忙しかった?」

安定した速度で運転するアノムに訊いてみた。

「港で船の乗客がたくさん降りてきたし、私より前にもう何人か運んだ?」
「いや、まったく」

アノムは首を振った。

「船の乗客はツアーに参加するからそのままツアーバスに乗っていくし、他の人に声をかけても断られてばっかりだったよ」
「そうなんだ。じゃあ私が1人目?」
「そう。やっとお客さんをつかまえた」
「そうだったんだ」
「船から降りてきたインドネシア人のクルーから聞いたんだけど、前のマニラで、タクシーのぼったくりや嫌な目にあった人がいたらしい。それでタクシーが警戒されてるんだろう」
「マニラで?」
「そう。マニラのタクシーはマフィアがらみが多くて、マナーもなってないし信用できないよ。
うちの会社は港と契約していて、ちゃんとしたタクシー会社だよ。制服もある。ほら」
アノムの白いポロシャツの胸元には、タクシー会社のワッペンと「BENOA PORT TAXI」の刺繍が入っている。

「そうだね」
「そう。だから僕たちはマフィアのタクシーじゃない。安心してほしい」

制服も名刺も、そんなものはいくらでも「それらしく」作れるものだ。
それでもいろいろ手を尽くして、少しでも相手に信頼を得てもらうよう心を砕く。
行動で示していく。
それは相手が外国人であろうが、関係ない。
ナニジンであろうが、どの国であろうが、関係ない。

「外国で、しかも、初めて会う人を信頼するのは、簡単じゃないよね」

試しに言ってみた。アノムはうなずく。

「そう。やっぱり警戒される。
だからたくさん説明するし、信頼してもらうために行動で示さないといけない。
もし私たちが観光客をだましたら、観光客にとってはこの土地ぜんぶが嫌いになる。
次にまた来たいと思わなくなる。私たちの行動がこの国の印象を決める」

「そうだよね」

私もいくつかの国を思い出す。
いい思い出がある場所には、いい人たちがいた。
その国を好きになるかどうかは、そこで出会った人たちが好きだったかに、ほぼ重なっていた。

「その国を好きになるかは、そこで出会った人たちにかかっているところがあるよね」

「そう。私たちの国には、『善い行いをすると、善いカルマになる』という教えがある」
「日本にも似たような考えがあるよ。そのとおりだと思う。
マニラだって、いい人はいたし、私が出会った人で親切な人は何人もいた」
「そう、悪い人もいれば、いい人もいる」
「インドネシアも、日本も、同じだね」
「そのとおりです」

あなたに出会えてよかったです。
アノムに言ってみた。
私もです、とアノムが前を見たまま言った。

「善い行動をしたからでしょう」

昨日、船内のテレビでなにげなく観た映画『ボヘミアン・ラプソディ』で、フレディ・マーキュリーが彼の父親に言った言葉が、ふっと降りてきた。

1985年のライブ・エイド。
アフリカ飢餓の救済チャリティイベントに無償で参加するQUEENボーカル、フレディが、実家に訪れて父親に言う。
「『善い思い、善い言葉、善い行動』父さんの教えだよ」
父親はフレディを一度だけきつく抱きしめる。

午後4時半。
アノムのタクシーはスムーズに港に着いた。

「30分早く着いたね」
「ありがとう」

タクシーを降りて、お礼を伝える。
食事代と持ち帰りのサテ代もろもろ、アノムが立て替えてくれた追加の10ドルが私の財布に足りていない。

オプショナルツアーから戻ってきたらしいバスと乗客で、港の周辺は賑わっていた。
YUKIさんがいた。

「おかえりなさい。どうだった?」
「すごく楽しかったです」
「よかった!」

アノムに伝える。

「船に戻って部屋から持ってくるから、待っててくれる?」
「いいよ」
「ありがとう」
「ここで待ってる」

アノムは港の前の道路を指さして、私を見送った。

出国検査のセキュリティチェックの列に並びながら、ふと「先に50ドルだけでも支払って」と言わなかったことに気づいた。

たとえばこのまま、私が船から戻らないことはできるのだ。
約束した往復のタクシー代だけでも払ってもらうよう、アノムは要求だってできるのだ。

ほんの3時間に満たない時間で、信頼について話したからかもしれない。
カルマの話をしただけでなく、できうる限りの行動をしたからかもしれない。

私にも、おそらく彼にも、互いの信頼を裏切る発想はなかった。

セキュリティチェックを通過するとき、前に並んでいる60代くらいの男性Kさんに気づいて声をかけた。

「Kさん、ツアーから帰ってきたんですか?」
「そう」

山口県から乗船したKさんとは、船のレストランでたまたま同じテーブルでご飯を一度食べたことがある。
お互いの名前と顔を知っている程度の、顔見知りの人だ。

「あなたは?」

Kさんが訊いた。

私はこれから部屋に戻って、タクシーの運転手さんに10ドル渡しに戻らないといけないんです、と言い、せわしなく足を速めようとしたところ、Kさんが言った。

「ぼくが10ドル持ってるから、いま渡してきたら? 戻るの大変でしょう」
「いいんですか。ありがとうございます!」

財布を取り出すKさん。

「あ、20ドル札しかない・・・」
「じゃあやっぱり、取りに戻ります」

Kさんはちょっと考えてから、財布から20ドルを抜き出した。

「いいよ、20ドル渡してきて。タクシーの運転手がそれで、家族とちょっといいご飯食べられるでしょ」

びっくりした。
Kさんにとってアノムは、名前も姿も顔も知らないまったくの他人だ。

「いいんですか」
「いいよ。ぼくは銀行で引き出せばお金があるんだし」

親切に、ちょっとふざけた表情をしてKさんが笑う。

「あなたは私に10ドル返してくれたらいい」
「ありがとうございます。甘えます」

ピカピカの20ドルを手にきた道を戻って、港で待つアノムの元へ。
20ドル札を渡すと驚いた表情になり、笑ってくれた。
「Thank you」
車で一緒に撮った写真を送るから、と、メッセンジャーを交換した。

彼のFacebookのプロフィール画像には、幼い女の子と一緒に映る父親アノムの姿があった。

「娘さん?」
「うん」

タクシーの運転手になって12年目、40歳だというアノム。
観光業がコロナで壊滅状態になったバリ島で、生きるためにいろいろ大変だったというアノム。
それでもおそらくは、善い行いに努めてきたアノム。

知らない他人から彼の手のひらにめぐってきた10ドルで、家族と美味しい食事ができるといいな。

善い行いがこうやって不思議に巡っていきますように。
そういう流れを、自ら作っていけますように。

タクシーを降りる間際にアノムが撮った画像が、facebookメッセンジャーに届いた。

「Have a good trip」
「You too. Have a good karma」

善いカルマを。

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