【グアテマラ編3】自分だけの意味



木々を抜けて視界が開けると、目の前にペテンイツァ湖があった。
夜ににじんで不確かな視界に、海といわれれば信じそうな広がりを感じた。
風のない、凪いだ水辺に近づく。
ジャングルの闇は後ろへ引き、カエルの鳴き声が遠ざかる。


夜の湖はぼやけていて暗かった。
まわりに街灯もないので当たり前だ。


月明かりに目が慣れてきて、周囲のジャングルのシルエットを捉えた。
湖に向かって小さな桟橋があるようだ。


夜空を映した湖面は、不思議な明るい黒をしていた。


雲間から月が現れては隠れた。
雲がはけると間接照明のように空は明るくなり、湖を浮かび上がらせる。
地上のほうが暗いくらいだ。

サンダルを履いたまま、水辺から足をそうっといれる。

「あったかい!」

なんだ、これ、湖なのか?

苔のついた丸っこい石が、サンダルの下でごろごろ転がる。
湖を進むほど、体がじわじわ温められていく。
あたたかい。


私の声に、Hさんが「本当ですか?」と足首を湖につけた。
おおお!と弾んだ声が背後で聞こえた。

「本当ですね、温かい。不思議です!」
「面白いですねー」


ふいに放たれた感情は、ふだん開けない本音への呼び水になる。


いつの間にか、Hさんの家族の話になった。
中国にいる家族のことで悩んでいるらしい。ただ話を聴いていた。

「執着は、手放さないといけないんです。わかっていても難しいですね」


執着、という言葉を、Hさんは何度も繰り返した。

外の世界へ向かいたい自分の野心と、自国に息子を引き留めていたい家族への罪悪感。
かけられる期待と果たしたい責任感、孝行したい気持ちのないまぜ。
自分が求めるものが外にあるジレンマ。
なにに対しての、それとも、誰かへの執着なのだろうか。
私からはなにも質問しなかった。
ただ話を聴いていた。

「執着するのは、良くないと思います。・・・あー」


我に返ったらしいHさんが、僕の話ばかりですみません、と声のトーンを上げた。

さよさんは、船旅生活どうですか?と訊かれて、なぜか『書く瞑想』ワークショップの話をした。

バンド練習、洋上イベント、寄港地、原稿、果物たべまくり、面白い人たちとの出会い、トピックはいくつもあるなかで『書くこと』『瞑想すること』を自然に話していたのは、Hさんの内省が引きよせた砂鉄だった。

「書く瞑想ってなんですか?」
「ノートに、頭の中に浮かんだことをただ書くんです。
きれいに書かなくていい。
日記みたいに整理された考えじゃなくて、思い浮かんだことを、手に書かせます」
「なんでも書いていいんですか」
「なにを書いてもいいです。誰にも見せません」
「やったことないです」

頭がスッキリしますよ、と言うと、Hさんが苦笑いした。

「ああ、僕、執着の悩みありますね。くよくよしてます。
捉え直しや頭の整理しないといけないと思います」
「しゅうちゃく・・・」
「はい、執着しないでいたいです」
「そうなんですね」
「ああ、また変な話してすみません」
「変な話じゃないですよ」


顔を上げると、風が強く吹いているらしい上空で、雲が音もなく流れていた。
まだら雲が切れて月が顔を出すと、光量がじわり増える。

地上は風がなく、湖面はとろりと凪いでいる。
何の音もしない。

右手で空をぐるっとかき回して、思いつくまま言ってみた。

「もし、Hさんの執着の雲があるとしたら、どれだと思います?」
「執着の雲?」
「空の。見えるどれかに、名前をつけてみるんです」
「あれかなぁ」
「月にかかった、あの、パンみたいな形の?」
「はい」
「じゃ、くよくよの雲は?」
「くよくよ・・・あっちの雲ですかね」
「あー、なんか、くよくよっぽい雲ですね」

Hさんが笑った。

「くよくよしてる雲ですね」
「雲で隠れてると、月が見えたときにうれしくないですか」
「はい。うれしいです」
「執着も、くよくよも、たぶんHさんの敵じゃないです。味方です」

Hさんが空を見たまま、黙った。続きを待つ沈黙の音。

「3年以上かかろうが執着して、諦めなかったんですよね。
それで、やっと世界一周の船旅にスタッフとして選ばれた」
「そうですね」
「Hさんの執着が、Hさんをここへ連れてきてくれたのかもしれない」

風に流されて、雲の形がゆっくり変わっていく。
しばらく黙っていたHさんが、言った。

「そうか。そう思ったら『執着してはならない』って苦しい気持ちがラクになります。
執着するのはダメなことじゃないんですね」
「執着も役に立ってたんです、たぶん」

パンの形をした雲が崩れてばらばらに流れていった。
「くよくよの雲」と名付けられた、まだらの雲が月に近づき、光をうすくまとった彩雲になった。

にじんで隠れた月が虹っぽく、まるく光る。

「話したら、スッキリしました」

空を見上げていたHさんが、こちらを向いて黒縁メガネをかけ直した。

「話しても現実は変わらないけど、気持ちが晴れるときありますよね」
「そうですね。なんだか明るい気持ちです」
「マヤ・パワーです」

私のテキトー怪しいネーミングに、Hさんが笑った。
マヤ文明の遺跡が点在する、深い熱帯雨林に覆われた湖。

「ですね。マヤ文明そばの大きな湖、パワーありますよ」

さっきより星の数が増えた気がする。
雲が晴れて、明るい空が広がった。

「Hさん、さっきより星が増えた気がしません?」
「ほんとですね。雲で隠れてたんですね」
「雲のうしろに星があるって知ってれば、雲もいい演出かも」
「あー、くよくよの雲や、執着の雲が?」
「そうかも」
「うまくできてますね」

足を進めることにした。

月を見ながら湖水に体をしずめていくと、胸の辺りでぽかーっと体が浮きあがった。
仰向けをうながす浮力で、まっすぐ立つ方がむずかしい。
塩湖かと思って指をなめてみると、淡水だった。
なんだこの浮き具合。

湖面が肩にかかるほど進むと、湖底から足を解いて寝そべった方がラクだった。

それで足の力を抜いて、あおむけに浮かんだ。
ビルケンシュトックのサンダルが脱げそうになった。

身体を空と平行にすると視界いっぱいに、地上より明るい空がひろがった。

「気持ちいいですよー、Hさん。浮かんでみません?」
「僕はいいです、難しいです」

Hさんの声が遠く聞こえた。
体を起こして振り返ると、15メートルほど後ろ、ひざ上の深さでHさんが立ちどまっている。

「恥ずかしいんですけど、僕、泳げないんです。こわいです」
「そうなんですね」

ああー、とか、うー、とか、うなる声の方へ泳いで戻った。
こんな年になって恥ずかしい、と30代半ばくらいのHさんがうなだれている。

「マヤの近くの湖で泳げたら、最高だったでしょうね」
「ですね」
「こんなことなら、泳ぐ練習しておけばよかった」
「泳がなくてもいいですよ。浮かんでみません?」

Hさんが間を置いた。

「ええ・・・でも」
「妙に浮くんです、この湖。たぶんいけます」

並んで、胸のあたりまで湖を歩く。
たしかに体が浮きやすいです、とHさんの声がこわばっている。

肩のラインまで進んだところで、指を上に向けた。

「上体をゆっくり反らして、後ろ頭を水につけてみてください。
空を見ます」

言われるままに上半身を後ろに倒すHさん。

「はい。空、見えます」
「慣れたら、そのまま両耳を、水につけてみてください」
「はい」

後ろ頭と耳をひたして、薄目で空を見るHさん。

「右足の力を抜いて、上げてみてください。浮きます?」
「おお、浮きます」
「じゃあ、左足も」
「はい」

湖底を蹴ったはずみで沈みそうになったHさんの腰を、下から手で支えると、あっさりHさんの全身が湖面に浮かんだ。
Hさんの両足のつま先ふたつ、ぷかっ、と夜空を向く。

「浮いた! 浮いてます! すごい! うわー」
「浮きましたねー」

子ども向け水泳インストラクターのバイトをしていた頃を思い出した。

「そのまま力ぬいててください。すこし揺らします」

新生児の沐浴みたいにHさんの体を湖面にすべらせてみた。
浮力がすごい。
Hさんの体が、私の片手にやすやすと支えられて、ゆるりゆるり前後左右に揺れた。

「ふわー、なんだか、泳いでるみたいです」

ジャグジーでは聞けなかったHさんの内側の声が、浮かびあがった気がした。
体の力が抜けるのが、支える手のひらから伝わってくる。

「Hさんは泳げますよ」

根拠なく、きっぱり言い切る私がいた。

「はい。そんな気がしてきました」

空を見あげてゆらゆら、Hさんの声がたゆたう。

「まさか、湖に入ると思いませんでした。
さよさんに誘われなかったら、入ってませんでした」

「私も一人だったら、夜の湖で泳ごうとは思わなかったです。
Hさんに来てもらってよかったです」

時間はわからない。スマホは置いてきた。
湖面でぷかぷか月光浴をしていると、石段を降りてくる人影がほのかに見えた。
ピースボートスタッフの男性二人だった。

「こんばんはー」
「おー、湖にはいってる! 冷たくないですか?」
「それが、あったかいんです。一緒に入りません?」
「シャワー浴びたばかりだからなぁ・・・」

ためらう二人に、Hさんが大きな声で言った。

「気持ちいいですよ!」

じゃあせっかくだから、と水辺で服をぬいでトランクス姿になった二人が湖に入ってきた。

「うわ、あたたかい!」
「でしょう?」

Hさんが弾んだ声で笑う。

「あおむけになったら絶景ですよ」

ウェイターがグラスの載ったトレイを水平に持つように、私はHさんの腰を片手で支えて、露天風呂でそうするみたいに空を見上げる。
4人それぞれの声が空に浮かぶ。

「気持ちいいなー」
「力が抜けるう」
「月、明るいね」
「はーーーー・・・・」


誰もしゃべらなくなった。

視界にあるのは、ラグビーボールの形の月だけ。
数日後には満月だ。
目を閉じると月も消えた。

「そろそろ帰りましょうか」

湖から出て、階段をのぼってホテルに戻った。
デッキチェアに残したタオルとスマホを係の人から受け取って時計をみると、23時を回っていた。
月が高くなっている。
プールにもジャグジーにも、誰もいなかった。

おやすみなさいを言い合って部屋に戻ると、同室の女性はすでに眠っていた。
服を着替えて、顔だけ洗って窓際のベッドにもぐる。
湖からあがったままシャワーも浴びていないが、妙に肌がふかふか、髪もサラサラ、お風呂上がりみたいだ。
湖つづきのベッドだ。

明日の朝も湖に行ってみよう。
誰もいない時間帯に。

そう思って目を閉じたら5時半に目が覚めた。
着替えて、スマホを持って部屋を出た。


ペテンイツァ湖がゆっくり夜明けを迎えていた。


暗くて見えなかった湖のふちが遠くまで見渡せた。


昨夜ジャングルで寝静まっていた鳥が今日の会話をしている。
何話してるんだろう。


私が執着していることはなんだろう。

グアテマラ2日目は、ティカル国立公園へ。
ホテルのテラスで朝ごはんを食べ、7時半にはホテルをチェックアウト。


バスに乗って30分で、ティカル遺跡に到着した。
一帯がジャングルで、蒸し暑い。空気がむっと濃い。

ハウルモンキー(ホエザル)が頭上で吠えていた。
のどの奥から響くうなり声がジャングルに響きわたる。
声量すごい。
何話してるんだろ。
襲われたら一発だな。
十数メートル上、木々を伝う彼らの重みで枝がザシザシと激しく揺れる。

一年のうち9ヶ月は雨期なこと。
神殿には願い事をせず、すでに与えられたものに感謝を捧げる風習なこと。
ガイドさんに案内されながら広い国立公園を歩いた。


ピラミッドと聞くと、エジプトの砂漠に建つシンメトリーで整った形を連想する私。
しかし。

「これも、あれも、ピラミッドです」

ガイドさんが示したピラミッドは、7~8mの盛り土に見えた。
4000年前のものだという。
ジャングルに覆われて風化したそれは、人の手で造られたピラミッドというより、自然物みたい。


人の手半分、自然が半分。

そんなピラミッドがいくつもあった。


通り過ぎるピラミッドには「Q」「R」などアルファベット一文字の記号名がついている。


ジャングルの開けた場所にでる。
ティカル遺跡といえばこれ、な、階段状のピラミッドが現れた。

両親と姉妹の4人家族とすれ違う。
上のお姉ちゃんがはにかんだ表情でこちらを見る。
ちらちらと目が合うので、笑いかけてみた。
恥ずかしそうに手を振ってくれた。

自由行動の時間になるとグループから離れて、順路のない遺跡をぶらぶら歩き回った。


とにかく暑くてペットボトルの水がどんどん減る。


登れる遺跡には登る。だいたい登る。


55mの遺跡のてっぺんから見下ろしたジャングルの密集した緑が濃かった。


石段を降りて日陰で休んでいると、さっき目が合った女の子が幼い妹を連れて近づいてきた。
話しかけても会話がうまくできない。
スペイン語が話せない私と、英語が話せない彼女。
彼女が何かを伝えようとしているが、わからない。

彼女が手にしたスマホを、私に向けて、スマホを傾ける。

「あ、写真?」

スマホを受け取って姉妹ふたりにカメラを向ける私に、ちがうの、と笑って首を振る。
人差し指で、私と自分を交互に指し示して、スマホをひっくり返し、ニコッと笑う。
あ、一緒に撮りたいんだ。

年齢を訊いたら、たどたどしい英語で、ナイン・・・エイト・・・エイティーン、と答える。
18歳。
私のスマホでも一緒に写真を撮った。


グアテマラから?
うん。

私は日本から。
うん。

一緒に写真を撮るあいだ、幼い妹が遺跡によじのぼって座って遊んでいた。


スマホのツーショット写真を確かめる彼女がうれしそうに笑った。
写真を撮っただけなのに今日一番のいいことをした気になる。
そう思わせるほどの笑顔ってなかなかないと思う。

お互いのスマホで、遺跡に登る姿を撮りあおう、と彼女がジェスチャーで示す。


10mほど階段を登って振り返ると、地上で私のスマホを手にして立っている彼女の姿が小さく見えた。
ふと思った。

(もしここで、彼女がぱっと駆け出したら私のスマホは持ってかれちゃうな)


事前に配られたグアテマラ寄港地情報には『治安が良くないので一人歩きは避け、数名のグループで行動するように』とあった。
治安が悪いとされるグアテマラ・シティと違い、ここは田舎だから、例外なのかな。
それとも彼女が例外かな。

彼女が手を振る。私も振り返した。
階段を降りてスマホを受け取り、今度は彼女のスマホを受け取る。
遺跡を登っていく彼女の姿を撮った。
野生の小さい猿が遺跡を飛び跳ねる姿を、小さい妹が追いかけていた。


このツアーに申し込んだ理由は結局よくわからなかった。


今回の旅に持参して何度も読み返す本に『アルケミスト』がある。
一節に『それは書かれている』を意味するアラビア語「マクトゥーブ」が出てくる。

2度目のグアテマラ滞在での出会いや出来事の、点と点が、どこへどうつながるのだろう。
結んだ線に、何が書かれているのだろう。

つながらないまま忘れる記憶かもしれない。

でももしかすると、
「ああ、だから私はこのツアーに申し込んだのか」と
無関係めいた点と点が結んだことばが、自分だけの意味を持つ日が、数年先にくるかもしれない。



[ おまけ ]

帰国後に検索して、あの湖がワニの生息水域だと知った。

何も知らず浮かんでいたのか、月明かりの下。
グアテマラと日本、離れてても同じ空の下。
ワニと私、距離はさておき同じ水の中。

昼間、地元の人たちが泳いでたから油断していたわー・・・に

Hさんには知らせないでおこう。

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