【マニラ編 3】マニラで忘れ物

マニラ首都圏の地図をダウンロードしていたら、寝るのが遅くなった。
夜が深くなると、船のWi-Fi利用者が少なくなって、ネット回線が昼間よりほんの少し速くなる。
日付が変わった頃にやっと地図をダウンロードできた。
GPSで現在地を確認するタイプの地図なので、これでネットがつながってない状態でも地図が確認できる。

マニラ最終日の前夜、2日間歩き回ってある程度道がわかるようになった頃に詳しい地図を手に入れる私です。
段取りがいい方ではない、17年前からあんまり変わらない。

予定になかった寄港地で出会った人たちが、ここのどこかで眠ったり起きたりしている。
デッキからマニラの夜景を眺めながら2時くらいまで起きていた。

起きたら8時を回っていた。
朝食を食べていると、昨日午前中に一緒に移動した知人が私を見つけて声をかけた。
昨日はあのあと大丈夫だった? ネットはつながった? どうやって帰った? 今日どうする? ネットがつながる場所何かわかった?
矢継ぎ早に訊いて、質問に答えるたびに「そっか。私、わからないから」と返される。
「何かわかったら教えて」と手を振って去っていった。

わからないことがあると質問ばかりする私を見ているようだった。

「私、わからないから」は、私自身がよく使う言葉だ。
言外に「だから仕方ないよね、教えて」をただよわせて、誰か親切な人がサポートしてくれるのを待つ。

だって私英語わからないから。
だって私ネット詳しくないから。
だって私そういうの苦手だから。
〇〇さんはすごいなぁ。(それに引き換え私は)

7年前に、月に数千円の副業から始めた。
ほとんど稼げなかったが、試行錯誤に自己投資を繰り返し、雇われていた側から少しずつ離れた。
フリーランス、個人事業主、経営のまねごとを始めて数年が経っていた。

規模は小さくても経営を学び始めると「右も左もわからないなりに、どうにかする人たち」が周りに増えた。
わからないからと思考にシャッターガラガラする自分の魂胆が恥ずかしく思う場面が増えた。
でもどうしようもない。経営とかわからないから。マーケティングとか知らないから。お金苦手だから。
だってわからないから。ずっとそう思っていた。
「わからない」を連発するたびに、自分が自分をゆるやかに弱者にしていくのがわかった。

「わからない」に出くわしたとき、選択肢はどちらか1つだと思っていた。

1)詳しい人に訊くか頼む(何もしない)
2)わからないなりに調べてやってみる(何らかやる)

私は、人に訊いて頼む 1)の一択で、学校も仕事も趣味ですら、受動的に生きてきた時間が長い。
かたや、自分の人生を引き受けて生きている人は、1)と2)を柔軟に行き来しているのに気づいた。
この2つを行ったり来たりしながら、やることとやらないことを自分で決めていく。
決めた結果がうまく行ったり、行かなかったりを、引き受けて生きている。
まだ眠い頭でヨーグルトを食べながらぼんやり思っていた。
14階のビュッフェのヨーグルトの隣にケチャップのボウルがあり、いちごジャムと間違えてかけるところだった。
(船旅初日、ヨーグルトの隣に置かれた梅酢ドレッシングを、いちごソースだと思ってかけてむせた)

マニラ3日目は、やたら忘れ物が多かった。

出かけたもののペンケースを忘れたのに気づき、船に取りに戻った。
大きな船なので、4階のゲートでIDを通し、セキュリティチェックを抜け、11階の部屋まで上がるので忘れ物を取りに戻るのに10分かかる。

10時半に船を出た。

出発が遅れたのは、忘れ物をしただけではなく船のスタッフにFree Wi-Fi情報を訊いていたからだ。
2日間あちこち当たったが、電話番号なしで使える場所を見つけられていないことを伝えると、港近くのシェーキーズで電話番号入力なしでFree Wi-Fiが使えますよ、と教えてもらう。

灯台下暗し・・・シェーキーズは船から5分の距離だ。
Wi-Fiクエスト、終了。
知らない人の電話番号をナンパしなくてもあっさりつながった。
もうこれでわざわざ街へ行かなくてもよくなった。
だけどなんだかつまらないな。

Wi-Fi探した2日間でいろいろな出会いがあったぶん、誰とも話さず港で最終日を迎えるのもピンとこない。
やっぱり出かけることにした。
目的地はなくなったけど、目的はある。
誰かわからないけど、誰かに会いたい。

マニラ最終日だ。

昨日やおとといと違って、寄港地の最終日には「帰船リミット」がある。
出航前の17時半までに船に戻らないといけないので、昨日のように遠出はできない。
ましてや迷子になったら船に置いていかれる(ほんとうに置いていかれる)。
歩いていける範囲内で今日は過ごそう。
オフライン地図もせっかくだから使ってみよう。

港から離れてけっこう歩いた時点でふと、モバイルバッテリーを船室に忘れたのに気づく。

今日は忘れ物をする日なのか。
朝から33℃を超えていて、歩き始めてすでに汗だくになっている。
スマホの電池残量を気にして動くのは不自由だけど、もういい、このまま行こう。

初日に行ったRobinson’s Place MANILAへ、今度は詳細な地図を頼りに行ってみる。

なのに、建物の裏口の従業員入り口に着いてしまう。なんで?
頼りがいある詳細な地図を手にすると、かえって勘が鈍るのだろうか。

モール内に入ると、見たことある店やディスプレイが目に入る。
一度行った場所に来ると少し安心する。マーキングしているみたい。
少し涼み、汗を引かせて次に行く。街を歩きたい。

Pedro Gil通りを左に折れて、高架鉄道に沿ってTaft 通りを歩いていく。
あ、ここで学生に道を訊いたんだった。
今日は訊かなくても道がわかる。嬉しい。

前に通った時に気づかなかった、市の図書館を見つけたので入り口を覗いてみた。

館内は暗く鍵がかかっている。
「土日は休みだよ」中から男性が顔を出して教えてくれた。

大きくて立派な国立博物館があったので入ってみた。

無料。涼しい。ありがたい。
ここでもセキュリティチェック、棒でカバンの中を広げられる。
身分証明書の提示を求められて、パスポートコピーを見せるとすんなり入れた。

中学生くらいの学生たちが絵画の説明を受けていた。
観光客にも地元の人にも人気の場所みたい。

3階建ての大きな美しい建物で、1~2時間で周りきれそうにないほど広い。

帰船リミットと、原稿をまだ送っていないのが気になって30分ほどで出た。

おとといマークが個人Wi-Fiを貸してくれたスターバックスのあるモールは、博物館から歩いて10分ほどだった。
マークが座っていた席で、今日は4人組の学生たちがノートを広げておしゃべりしている。
たった2日前のことなのに懐かしかった。

試しにFreeWiFiにアクセスしてみる。つながった。
昨日ジャスミンが貸してくれたパスコードがまだ有効らしい。
ジャスミンは今日もあの巨大なモールでコーヒーをつくっているだろうか。
土曜日で満席のスターバックスを後にした。

帰船リミットまであと、4時間。
残り206ペソ。
特に買い物するつもりもなかったので今日は両替をしなかった。
パンを2つ買って軽い昼食にする。

食べきれなくて残したものをバッグにしまった。
そろそろ戻ろう。スマホの充電も少ない。

帰り道のリサール公園を通り抜けようとして、週末イベントの準備をしているのに気づいた。
LGBTQ関連のイベントらしい。

PRIDEのレインボーフラッグが、特設ステージに飾られ、出店の看板もレインボーカラーだ。
喉が渇いていたので出店でレモネードを買った。30ペソ。

いつの間にか、小さな男の子2人が視界にはいっていた。
1人が私の目をじっと見て、ゆっくり歩いて近づいてくる。
「マネー?」

お金を渡すつもりはなかった。首を振る。
ふたりは兄弟らしい。
お兄ちゃんは私の目をまっすぐ見る。
お金か食べ物を差し出してくれそうな人か、危害を加えない人か、見定めようとしているように見える。
少し後ろから、弟が笑ってお兄ちゃんにくっついている。

どうしよう。
お金を渡すつもりはない。
ない。
だけど、むげにすることもできそうにない。
どうしたらいい。
なら、お金を渡す?
いや、しないほうがいい。いいのか?
落ち着かない気持ちがうずになって、兄弟から動けなくなった。
中途半端に笑う私に兄弟が離れて遊びだし、また戻ってきた。

あとで食べようと残しておいたパンを、ためらいながら食べる?と訊いてみる。
食べかけたものを渡すことに気が咎めたが、お兄ちゃんはあっさりうなずいた。
渡したパンをお兄ちゃんはていねいに半分に割り、弟に渡した。
食べ始める2人をみながら、もっと残しておけばよかったと思っている。

買ったばかりのレモネードがたっぷり残っていたので、蓋とストローを外して渡した。
パンを食べ終えた2人は、氷とレモンの浮かんだ飲み物をかわるがわる飲んだ。
中に入っていたレモンの皮でふざけて私に笑いかける。
「写真撮っていい?」「うん」ニコニコ笑う。

「お母さんは?」 「いない」
「お父さんは?」 「✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎」 聞き取れない。

お金はダメで、食べ物ならいいのか?
そもそもお金を渡したらどうだ?
レモネードとパンを買った残金は、45ペソ。
45ペソで、出店で買える食べ物はないか探してみた。ない。

イベント会場を通りがかった男性3人組に、兄弟が近づいていく。
お兄ちゃんが1人に何か言う。
1人の男性が苦笑いして、ペソ硬貨を2、3枚渡すのが見えた。
出店の食べ物が買える額ではない。
お兄ちゃんは弟と、受け取ったコインを転がして遊び始めた。

兄弟をずっと見ている。
公園をさっさと通り抜けて、港に戻るはずだったのに。

やっぱりお金を渡したらいいんじゃないか?
20ペソ札2枚と5ペソ硬貨を、彼らに見えないように財布から取り出す。
渡そうとして渡せずに、畳んで右手の中に隠し持っている。

「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教え」ないと。
あと数時間でマニラを離れる身で、教えられるものがあるのか。
倫理で彼らのお腹はふくれない。
渡したらいいんじゃないのか?
でも、そうやって通りすがりの他人がお金を渡す構図を繰り返せば、彼らが学習する。

兄弟は「物乞い」という名詞じゃない。
生きるために、一時的に「物乞いをしている」動詞だ。
物乞いと決めつけるな。
でも、生きるための、ほんとうに一時的な状況なのだろうか。
物乞いをしないで生きる選択肢は2人にこれからあるのだろうのか。
やらない善よりやる偽善。
だったらなんだ。さっきから頭の中がきれいごとでうるさい。
泣きそうになる。
屁理屈をめぐらせてヘラヘラ笑って立っている私は、誰の役にも立てていない。

ふと、お兄ちゃんが走った。
公園内でたたずんでいる痩せた女性に駆けより、抱きついた。
弟が2人の周りをニコニコ跳ねている。
女性から離れたお兄ちゃんと、目が合った。

「あなたのお母さん?」
「うん」

お兄ちゃんがうなずく。
そっか。お母さん。
ホッとした自分に気づいて、さらに胸がザラザラする。

もう帰ろう。

兄弟のそばにいく。
「行くね」
お兄ちゃんが私を見上げて、「ノーマネー?」と問う。

あるよ。

ゆっくり首を振る私に、バイバイと手を振って2人は遊び始めた。
通り過ぎるはずの公園で、1時間が経っていた。

船に戻ってきた。
船室の机の上に置き忘れていたモバイルバッテリーをバッグに入れて、再び外出。

港のそばのシェーキーズでスプライトを注文し、Free Wi-FiにつないでMacを開いた。

少し仕事したらもう帰船リミットになった。
港のゲートに走る。

今日のどこかの選択肢に、後悔しない行動はあったのだろうか。
私は、お金を渡しても、渡さなくても、後悔していた気がする。

「割り切るとお金が稼げる」と凄腕の経営者の大先輩に教わったことがある。

割り切るとブレないし、判断にも迷わない。
決断が早いほど行動が早い、結果、経済的にも強くなれる。

割り切れずブレブレで中途半端な弱い自分は、夕食を船のレストランで食べている。
目の前の、手つかずのパンをあの2人に渡せたらいいのにと甘いことを考えている。

20ペソ札2枚と5ペソ硬貨が、使われないまま部屋のテーブルの上にある。

「船旅2周目に行くなんてスゴイ!」と何人もの人に言われて調子に乗ってたな。

頼るのが苦手なくせに誰かに寄り掛かりたい依存心の強い自分を、忘れていた。
割り切れないまま強くなりたいと願う中途半端な自分も、忘れていた。

割り切れない世界の清濁を、直視も、見ないふりもしきれない。
単純明快にスッキリさせないで、生きる力がもっとほしい。

3日間マニラ港に停泊していた船は、19時前に出港した。

どちらにしても旅は続くのだ。

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